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都会の人々の生活
世界中どの国の大都会に行っても、都会の人の生活は多少差はあれ、ほとんど同じようなレベルではないかと思う。ヌアクショットやヌアディブの都会の人々はどのような生活をしているのかと問われたら、やはり、街に舗装道路、街灯があり、車が走って、オフィス街にはネクタイを絞めたビジネスマンが行き交い、家は水道や空調が完備、テレビがあって水洗トイレがある生活。ただしアフリカの中でも貧しい国の数番目に入る国であるから、その規模は日本の地方の県庁所在地都市より小さいと思ってよい。
そして何より、この文化的生活を営むことができる人々は、ヌアクショットではごく一握りの金持ちだけ。7割以上の貧民層はかろうじて裸電球ひとつの、水道・下水設備も電話もない家に住み、ロバにドラム缶を積んで売りに来る水を買う生活をしている。
ごく一握りの金持ち、鉄鋼や漁業、省・官庁などの利権を掴んだ人々や代議士、地主…etcは、ひときわ豪華な家に、外国から輸入した立派な家具に囲まれて住んでいる。ヌアクショットやヌアディブの国際空港に行くと、ゴールドやダイヤモンドをきらめかせブランド物で着飾った男女が家族の送迎に来ている。国際空港に出入りするモーリタニア人といえば、ビジネスマンかこの一握りの金持ちくらいしかおらず、一般人には全く用のない所だからだ。
そして、ヌアクショット住民の2割くらいの中といおうか中上流階級。地位の高い官庁の役人や大手企業の経営者などがそれに続く。彼らは、日本の戦後、大勢の家族が小さな家に住んでいた頃の一般人の生活に似たような暮らしをしている。
そしてヌアクショットで最も大部分を占める下層階級。1970年代の人口が増加しはじめた頃は、近隣の定住者がより良い仕事を求めて移住してきたか、セネガル河流域の農民が農閑期に出稼ぎに来るパターンだった。1980年の大干ばつの後は、ラクダなどの家畜が死に絶え、近隣だけでなく地方の遊牧民が、遊牧の生活を捨てて都会に仕事を求めて来る人々が増えた。
地方から出てきてもすぐに仕事が見つかるわけではない。親類があればそこに身を寄せて、数ヶ月、あるいは数年もかけて探す。ヤギや羊を捌いて何がしかの賃金を得たり、のこぎりや電球を手に街角に立って、家の修理や電気の修理を依頼して来る客を待ったり、食べていくためにありとあらゆる知恵を働かす。土地を郊外の安いスラム街に求められればまだまし、そうでなければ、空き地に棒とぼろ布を家を作って住んでいる。毎日の食事もきちんととれないような悲惨な暮らしだ。

空から見たヌアクショットの町。砂丘の上に町が作られ、年々拡大している。
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ヌクアショットでは、近隣でとれた野菜が手に入る。フルーツはモロッコやセネガルから輸入されたものが多い。 |
遊牧民(NOMADE)の生活
モーリタニア人はもともと、南部の河岸の緑地で農耕を営む人や、都市部の宗教・教育関係者などを除いて、ほとんどが遊牧民だった。ラクダややぎ・羊を飼いながらテントで生活している人々は、家畜の餌を求めて年に何度となく移動する。
遊牧民がテント生活している部落をキャンプ(campement)という。キャンプでは1つないし3つくらいのテントに家族や親類が老人から孫、時にはひ孫まで3〜4世代が数人で住んでいる。これが、数個から数10のテントが集合しているとブルース(Brouce)=部落と呼ばれている。地方によってはテントではなく石や土でできた定住型の建物の集合体であったりする。
普通の遊牧民の家庭では、父親と男の子供らがラクダやヤギ、羊の放牧に終日砂漠の中を歩き回る。その行動範囲は数〜数十キロにもおよび、1日から1週間、時に数ヶ月も出かけたままということもあるという。
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| 遊牧民のテント |
ヴォワルを着た少女 |
婦人や女の子、5、6歳くらいまでの男子は家事つまり食事を作ったり掃除をしたり、火を燃やすための薪を集めたり、ヤギや羊の乳絞り、または戻ってきたヤギ・羊を小屋に入れる世話をしたりする。またロバにポリタンクをくくりつけて水を汲みに行くのも主に子供、女の仕事である。井戸は時には5〜25kmも離れていることがある。いくら慣れているとはいえ、土地の人々にとって水汲みはたいへんな重労働だ。
もうひとつ、女にとっての重労働がクスクス作り。洗面器をザル状に穴を開けたような容器に小麦とオリーブオイルを入れてこねながら、この穴から粒上のパスタを作る。何度も容器を通して、2から4mmくらいの小粒にする作業で、かなりの力仕事だ。この作業の影響で中年を過ぎた女性に肩や腕、腰痛が多いという。

クスクスは小麦粉(セモリナ粉)にオリーブオイルを加えて、ざるを通して作る2,3mmのパスタ |
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クスクスを蒸している間に、肉や野菜のシチューをつくり、それをかけて食べる。 |
テントは、ラクダや羊の毛を編んで作った黒いピラミッド型のテントが一般的。3ヶ所を地面とくっつけて風や砂を防ぎ、1ヶ所は出入り口として開ける。その中に、むしろのような草を編んだものを敷き、さらに絨毯や毛布が敷き詰めてある。日本の大型枕のようなクッションをあてがって、横座りしたり、寝っ転がってお茶を飲みながら団欒する。
最近ではこのテントも昔ながらのラクダ・羊の毛を編んだ手の込んだものより、西洋のキャンパス生地を使って、内側にカラフルな布地をパッチワークした白いテントが普及し始めている。
1年に何回となくテントをたたんで移動する遊牧民達は極力荷物を持たない。最低限の衣類の入ったつづらと食糧袋、茶道具と鍋や大皿または皿代わりに使う洗面器がひとつかふたつ。
ある日、家畜の餌が少なくなったと家長が判断すると、翌日瞬く間にテントをたたみ、餌を求めてラクダで引越しする。家と物に執着し、身軽に動けない私達日本人にとって学ぶべきところがある習慣かもしれない。
家族の関係は江戸時代の日本人にかなり似ていると思ってよい。家長の絶対的権力、長男が家を継いで、長男以外の男の子供はたとえ賢くても長男が家長についで権力がある。
客人がある時は、食事は男と客人だけが同席し、女・子供は客の見えないところで、男と客人が食べ残したものを食べる。
5、6歳から義務教育を受けることになっているが、地方のキャンプの子供は父親にコーランを板に書いたものの読み書きを教わったり、近くの学校のある村に親類の家に寄宿して学校のある時期だけ親元を離れて勉強する。実際は始まる年齢、さらに小中学校の年齢もまちまち。そして女の子供は学校に行かないことも多い。
近年、義務教育制度が普及して文盲率が下がってはいるものの、地方の女子や都会でも地方から来た難民の子供などは学校に行けないケースが多いという。文盲率はヌアクショットやヌアディブで平均45%、希望街道沿いの都市で約70%。
食 事
フランスの植民地になった多くの国々では、フランスの残したものを徐々に排斥していくのだが、フランスパンを食べる習慣はなぜか残っている。モーリタニアも本来小麦の料理か、米料理を主食としていたが、フランスパンが定着し、砂漠の奥地でも大きな都市に行けば手に入る。
モーリタニアの朝食はお茶とパンで始まる。最も、遊牧民らはラクダやヤギの乳を水で薄めて砂糖を入れたものをお腹いっぱい飲むだけという人の方が多いが。
昼食は午後3時ごろ。ヤギ、羊、ラクダの肉を塩茹でしたか炭火焼きしたものを食べる。そして残った骨を集めて米、またはクスクスのソースとして調理し、1時間以上もたった頃、メイン料理が出てくる。田舎では新鮮な野菜が入手できないから、残った肉と骨で、トマトや玉ねぎ、豆類を煮込んだソースがほとんど。
夜も同じパターンで9時過ぎに食事が始まる。ヌアクショットやヌアディブの人々は、肉を煮込んだものをごはんにかけた料理、魚やフライドポテト、コーン、ジャガイモ、トマト、ツナなどのミックスサラダ、鳥のから揚げやクスクスなどと食材も豊富なことから料理のバリエーションは多い。国民の9割を占めるモール人は魚を食べる習慣がないので、魚料理を食べるのはヌアクショットやヌアディブの一部の人々だけである。
食事時間になるとサロンの真中にカラフルなビニールクロスを地面に敷いて、ナツメヤシが山盛り出て来る。来客がある場合は食卓につくのは主人、親類の男と客だけ。女、子供は客が食べ残したものを、客の見えない裏手や別のテントで食べる。
食べる前に、手洗い用金具を持ったボーイがひとりひとり回ってやかんで手洗いの水を注ぐ。現地の人はイスラム教なので使う右手だけ洗うのが普通。手洗いが済むと、なつめやしのオードブル。もっともこれはごちそうの時だけだが。その後大皿に盛られた料理が出てきて、それを全員で取り囲んで手で食べる。ご飯やクスクス、スパゲティは手でお握りのように丸めて食べ、肉は片手で千切りながら相変わらず片手だけで器用に食べる。私達日本人が同じように食べようとすると、ご飯やクスクスが手にくっつくばかり、手元のビニールクロスが散らかるばかりでなかなか上手に食べられないものだ。
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| 現地人たちの食事風景。肉もクスクスも手で食べる。 |
都会の祝日のご馳走。生野菜のサラダやクスクスも田舎のものと違ってゴージャス! |
モーリタニア人の歳
遊牧民の生活をしていると、朝日と共に起き、日が暮れると寝る、カレンダーも時計もない生活をしてきたので、多くの高齢者は自分の年齢を知らない。××が起きた年に生まれたとか、○○があったから何年生まれとかで自分の年を記憶している。
さらに出生届の義務が徹底していなかったので、誕生日はもっと知らない人が多い。近年、全国で身分証明所を発行した際、誕生日のわからない人は1月1日生まれとされた。高齢者に生年月日はと訊ねると、1月1日生まれが多いのはこのせいである。
ようやく数年前から国勢調査を始めて、全国の住民の統計を取るべく、出生・死亡届の義務を進めているが、都市から遠く離れたキャンブに住む遊牧民や、ヌアクショットなどの大都市に流入している地方からの難民などは、そうした義務を遂行するより食べる方が先決問題で、国勢調査が徹底できないでいる。
モーリタニアの民族衣装
砂漠を旅していると、砂漠の中を遠くからブルーの衣装を風になびかせて男の人が歩いてくる。えも言えず、優雅で軽やかな足取りにかっこいいとほれぼれ魅入ってしまう。これがモーリタニアの男性の衣装、ブブー(Boubou)だ。日よけ、砂よけを兼ね、遊牧民らはこのブブーのまますっぽり頭からかぶって、砂の上でも木陰でも寝たり野宿できたりする実用的な衣装だ。
ヌアクショットのような大都会でも、一部のビジネスマンがスーツで仕事をしているが、ほとんどの男性がこれをまとっている。
幅3、5mの身長の倍ほどもある布の真中に首を出す穴をあけ、胸の前にポケットをつけたような衣装で、サイズは1サイズだけ。白、空色、ブルーの3色があり、刺繍の程度によって値段が違う。最近では、都会の人々が着るブブーはいろいろな地模様のものが出て、それなりにおしゃれを楽しむようになった。
頭にまくターバンはハウリ (hawli) と呼ばれ黒、白、カーキ色のコットン製で夏・冬用の厚手、薄手のものがあり、好みで選んでいる。
ブブーの下にはアラブ風パンツ、サラワール(saroual)をはく。ブルマーのおばけのような、ギャザーのたくさん入ったひざ下までの七分丈のものだが、最近都会の人は、下にジーンズやズポン、ショートパンツを履いている男性が増えた。
そして女性がまとうのがメルハファ(melhafa) 。生地の名前でヴォワル(voile)とも呼ばれている。幅180cm、長さ4mくらいの薄いコットンの藍染めの布。首から下に巻き付け、最後に頭の上をカバーしてふんわりと包む。藍染めした布を水洗いしないでそのまま身につけるので、肌や下着に色が移るが、虫除け、日よけ、寒さよけの意味があった。最近はインド・パキスタンあたりから輸入される色とりどり、いろいろな模様のヴォワル地が市販されており、透けた布地になったので、下にひざ丈のワンピースを着るようになった。日本のカネボーという高級素材の物もある。縞模様、絞り染め、ツートーンカラーなど都会に行くほどヴァリエーションも豊かになり、流行などもある。モーリタニアでは同じイスラム教でも他のアラブの国々のように宗教上の理由で顔を隠すことはない。が、強烈な風や砂をよけるのになくてはならない衣類なのである。
モーリタニアでは、このブブーの男性とヴォワルの女性たちの姿が砂丘や土・石でできた建物と非常にマッチして絵の様に美しい。ただ、私達日本人がこれを着ようとすると裾はからまって歩けず、頭の上はずるずる滑り落ちて瞬く間に着崩れしてしまい、外国人が着物を着るようにむずかしい。
茶の儀式
モーリタニア人は世界でも有数なお茶の消費国だ。彼らは何かにつけお茶を飲む。自宅で、来客の時、オフィスで、テントの下で、ヤシの畑で、砂漠の中で、ガソリンスタンドで給油している間に、漁船の上で、そして食前、食後、食べ物が無い時・…etc.
朝から夜まで何回となく飲む。
日本の煎茶の儀式のように、モーリタニアもお茶の入れ方があり、子供の頃から親や親類に教えてもらう。200ccくらいしか入らないような小さなホーローのポットに水を沸し、途中お茶とかなりの量の砂糖を入れて沸騰させる。沸いたらおちょこのようなガラスの茶わんに70cm〜1mほど上から注ぎ入れる。これだけ高くかかげて直径3cmくらいしかないグラスに注ぎいれるのだから、こぼさずに入れられるようになるには年季がいる。お茶のセレモニーであり泡を作る為なのだそうだ。
注ぎ終わったグラスからお茶を再びポットに戻し、コンロで再び温めて再度、注ぎのセレモニーを繰り返す。こうして人数分に分けたものをお盆にのせてそれぞれに呈する。
お茶は何でも良いわけではない。SONIMEXというヌアクショットの公団が輸入した中国の緑茶
NO.8147でなければならないそうだ。これ以外のお茶では「しょんべん草」と嘲弄される。だから、モーリタニアではどんな田舎にいってもこの番号の入った木箱が売られている。場所によってはこれにミントを入れる。
お茶を全員に一回りすると、また同じ作法で入れ、3回出すのが普通。3回終わるまでに30分〜1時間かかり、その間におしゃべりをしながらいろいろな情報交換するのである。
モーリタニア人が旅に出かける時、衣服を忘れてもコンロと茶セットだけは絶対持って行くという程、モーリタニア人にとっては切っても切れない嗜好品なのだ。確かに、とても甘い飲み物だが、砂漠のカラカラに乾いた気候にあって、このお茶を飲むと喉の渇きがピタリと止まる。きちんと3食とれない人々にとって、エネルギー源でもあるのかもしれない。
お茶がアフリカに持ち込まれたのは15世紀。西アフリカにポルトガル船が運び込み、トンブクトゥーまでキャラバン隊が運んだ。ヨーロッパでお茶を飲むようになるのは17世紀、イギリスやオランダ人が輸入するようになってからのことである。
モーリタニアに「アテイ(atei)」といわれる茶の習慣がもたらされるのはそれから遅れて19世紀になってから。マラケッシュの茶道がアルゲン湾界隈の住人の間に広まった。それが鎮静の効果があるとしてアドラール地方に1870年〜1880年頃伝わり熱狂的なファンができた。南部モーリタニアに伝わるのは、20世紀になってフランス人らによるらしい。
お茶を入れる若い女性。どこに行っても、3杯お茶を出してくれる。
なつめやし
なつめやしは「神様の贈り物」といわれ、メソポタミア時代から栽培されていたという。私達日本人がよく知っている椰子の実とは違い、細い軸に数十個のオリーブのような形をした実がなり、これが一本の木に数十本の束でなる。
実が青いうちは渋く、柿の味に似ている。最近、日本でもデーツと言って輸入食品売り場に見かけるようになったが、これは木になったまま乾燥させてたもの。干し柿に似た甘いドライフルーツだ。
実が大きくなり始めたなつめやし。ゲトナ(収穫時期)が楽しみ!
なつめやしはモーリタニア内で栽培されているものだけで7、80種類もあるという。オリジンは不明だが、いろいろ掛け合わされたりして小さい実、大きい実、細長いのや太った実、乾燥すると黒くなるのやうす茶色、こげ茶色になるのなど、はちみつのようにジューシーなのからパサパサに干からびたものなど、いろいろなデーツがある。
木は雄株と雌株があり受粉させる。なつめやしの実が地面やヤシの木を覆っているワラ状の皮の間に落ちて、しばらくすると芽が出て小株に育ち、それを株分けして育てる。なぜか、やしの実の種を蒔いたものは育たないと信じられている。
なつめやしの収穫は7月末〜8月。収穫祭ゲトナ(guetona)と呼ばれ、モーリタニア人にとって一年で最大のイベントだ。遊牧民も都会の人もこの時期には先祖代々のヤシ畑のあるところに戻ってくる。この時期に家畜の餌になる木が近くにない時は、父親と手伝いの男子だけ単身赴任し、女子供らはヤシ畑のそばのキャンプで生活する。ほとんど毎日おなかいっぱいやしの実(まだ渋味の残る青い実)を食べ、夜になるとダンスタイム。楽器をならし、歌をうたい、口笛をならして躍る、毎日がお祭りのバケーションの時期だ。
遊牧民になりたいと願っていないモーリタニア人はいないという程、都会に住んでいる人々にとっても遊牧民の生活は切り離せない。だから、ゲトナの間休暇をとってキャンプに戻る都会のビジネスマンも多いという。
やしの木は、アカシアくらいしか木がない砂漠の人々にとっては貴重な生活必需品で、捨てるところがない。枯れた葉は垣根や屋根に、根や繊維はクッションの中身やラクダの鞍に、幹は家やテントの柱やトイレの敷板に、そしてヤシの木1本まるまる使って井戸の水汲み用のテコになる。
普通、モーリタニア人の家に食事に招かれるとまず、オードブルとしてなつめやしが出る。場所によってはヤギの乳から作ったバターやヨーグルトをつけて食べることも。毎日、ヤギや羊は口に入るとは限らない上、野菜がない土地柄、大事な栄養源だ。
井戸事情
サハラ砂漠を遠方から金や塩を運ぶキャラバン隊にとって井戸は命のかてだった。砂漠に点在するオアシス、つまりヤシの畑には必ず井戸がある。だから、旅人達はヤギの皮で作った袋に水を入れ、アオシスをたどって旅をした。
一方、遊牧民にとっても命の水。私達日本人ほど水を飲まないですむような習慣を身につけているが、砂漠の中を一日放牧して歩き回るので、井戸のある所を中心に生活する。
年々砂漠化が進むモーリタニアではその貴重な井戸が次々と涸れ、激減している。さらに深刻な問題は井戸の水位が下がっていること。水面が100m近くという井戸は、大人の男の力でもなかなかつるべを引っ張り上げることができず、ろばやラクダ、時には車にロープをくくりつけて引き上げる。
近年になって日本やヨーロッパからの支援で、南部の希望街道沿いに数百本の井戸が作られたが、北部やチジクジャから奥地の地域では相変わらず井戸は重大問題だ。
都会ではロバ荷車に乗せて水を売りに来る。
砂漠の覇者・ベドウィンのたどった道
サハラ・オキシダンタルの遊牧民の戦いの歴史はオリエントからやってきたベドウィン族との戦いに始まる。
まず、古代イエメンを元祖とするベルベル族の襲来。この一族は3つの大きな部族、ラムツナ(Lamtuna)、
グダラ(Gudala)、 マッスファ(Massufa)がサンハジャ(Sanhaja)同盟のもとに団結した。この一族が11世紀にアルモラヴィド(Almoravides)という武装宗教団の核となって、アフリカ北部一帯からスペイン南部にまで大きく勢力をのばすことになる。
後、モロッコやスペイン・アンダルシアでの権力が衰退すると、ベドウィンはサハラ砂漠に戻ってくる。
16世紀になるとエジプトのアラブ族がマグレブ諸国(今のモロッコ・アルジェリア・チュニジアあたり)に定着する前に、サハラに移住し始める。中でも有名なベニ・ハッサン(Beni
Hassan) は北アフリカにわずかな間滞在しながらサハラへと移るのである。ある歴史家に言わせれば「砂漠の外のベドウィンは水の外にいる魚とおなじようなものだ」と彼の行動を分析している。こうしてまったく違うアラブとベルベル族の二つの文化、それでいて砂漠の中に生きるのを本性とする共通の文化を持った民族が交じり合う歴史が始まった。
やがて、これらのアラブ・ベルベル文化はモール(Maure)という社会を作り出す。
20世紀初め、サハラ一帯フランスの植民地化となった。それぞれの国境は「国の秩序を守り、遊牧民=誇り高き強盗団の勝手な往来を管理する」という名目で、軍隊やポリスが設置された。
1960年にモーリタニアやマリが独立すると、ベドウィン族は新しくできたばかりのそれぞれの政府に従わなければならなくなった。今、モーリタニアに住む9割がこのモール人である。
一方、サハラの北部に住んでいたモール人らは1975年までスペインに管理されることになる。 (Rahal Boubrik
著 抜粋)
希望街道 (Route de l’espoir)
ヌアクショットからモーリタニア南部を横断してマリとの国境ネマまで1099kmの舗装道路。1970年にかの有名なトランス・アマゾンを作ったブラジルの企業が落札、工事を開始した。このトランス・モーリタニアンを作るために、2000人以上の作業員が昼夜働き、400台以上のブルドーザーなど大型建設機械が稼動したという。
顕著な例は、ヌアクショットから街道を進むと最初にある大きな町キッファ(604km)
、ここまでの舗装道路を作るのに10トントラックが450回機材を運ばなければならなかった。いかに大掛かりな工事だったか、しかも、冬でも日中30℃以上、夏の炎天下で50℃を越える中での過酷な作業だったか想像できよう。
ヌアクショットの町はずれ、貧しい住宅が建て並ぶ居住地区を抜けると、街道の周りにいきなり何もなくなり黄色やオレンジ色、ベージュなどの折り重なる砂丘が見える。これがトラルザ(Trarza)の砂丘。
53km地点、ウァッド・ナガ(Ouad Naga)村。土でできた民家と遊牧民とテントが入り交じって建て並ぶ村だ。
次にくるのが大きな町ブーティリミット(154km)。そして乾湖を過ぎるとこじんまりしたアレグ(262km)と続く。小高い丘の上にある、かつてのブラクナ(Brakuna)首長の中心地だったところ。このあたり一帯は広大な放牧地となっている。
希望街道はいくつもの丘を越えマグタ・ラハジャ(Magta’Lahjar)の町へ。小さな町のわりに日中、町の人々が往来にあふれごったがえす町だ。
村とも部落とも気がつかないほどのひっそりとした部落がカンガラファ(Cangarafa)でここでチジクジャへの分かれ道となる。
希望街道はタガン地方を横断し続け、西へと向かうと、周り一面大きな大地の崖が見えてくる。とりわけジューク(Djouk)とカムール(Kamour)はから見下ろす谷間の景色は壮観だ。
続いてゲルー (Guerou)、広大なサバンナ地帯の中でラクダやろば、こぶ牛などが放牧されている。ゲルーは北部アドラール地方の消え去った町チニギ(Tinigui)の人々が、移り住んで興した村だ。
タガンの隣、アッサバ地方の中心、キッファ(604km)。キッファで何より目につくのはバンコと言われる泥で作った家々。ニジェールやマリの川沿いに多く見られるスーダン風建築を思わせる。
キッファから希望街道を離れて北へ160kmタムシュケットがあり、その先にかつての大きなキャラバン都市、今は遺跡の町となったアウダゴスト(Aoudaghost)がある。
希望街道の両側に大きな岩山が見えてくるとアイウン・アル・アトラス(Ayoun
el Atrous),819kmに着く。 広大なホッジ(Hodh)盆地の中に位置し、アッサバ断崖、タガン断崖、チシット断崖、ウァラッタ断崖がホッジ盆地を取り囲んでいる。
続く小さな村チンベドラ(Timbedra)、そして希望街道の終点、ネマ (Nema)。
1985年に出来上がった舗装道路も、その後かなり荒れ果て、2000年に入って、ヌアクショットからキッファを通過し、チジクジャまで修復・舗装された。その先の修復工事も進められている。
砂漠化
もともと遊牧民の国民性、できることなら遊牧の生活をしたいと望んでいないモーリタニア人はいないという。ヌアクショットからネマまで約1100kmにわたってモーリタニアを横断する希望街道(Route de l’espoir)、かつては砂漠へ向かうことが希望だったのに、今では砂漠を抜け出し、都会に希望をつなぐ道路になってしまうとはなんと皮肉なことなのだろう。
砂漠化については、モーリタニアと砂漠化のページをご参照ください。
進出する中国人
中国はモーリタニアと1965年に国交開始以降、ここ10年あまり他国に先駆けて相互関係を深めてきた。分野は政治、経済、農業、医療・衛生、エネルギー、漁業、インフラストラクチャーと幅広い。近年の情報を元に、進出ぶりをまとめてみた。
商業分野では、近年特に貿易が拡大し、中国は対貿易国のベスト3に入りつつある。首都ヌアクショットには多くの中国人が居住し、中国雑貨を売る商店なども増加した。
農業分野では、首都から南部へ250kmあまり、ロッソのンプーリエ(M'Pourie)米作地で、中国人農業専門化が穀物栽培の指導にあたっている。
エネルギー分野では、とりわけ石油部門で、中国企業のCNPC(中国石油天然気集団公司)がモーリタニア国内3ケ所(ブロック12のヌアクショット沿岸油田、ブロック13,ブロック21のタウデニ油田)の開発契約を結んだ。タウデニ油田では既に探鉱掘削を終え、アエロ・マグネティク、重量分析の段階に入った。
鉱業分野では、モーリタニア鉄鋼公団SNIMと中国のChina Minmetals Corpotaionとで年間1,5万トンの鉄鉱石の購入契約が結ばれ、向こう7年間中国に向けて輸出される。
医療についても10年以上も前から協力が進み、ヌアクショットやキッファ、セリバビの国立病院で2年間単位で中国から医師団を派遣している。医師団はスキャナー、エコーグラフ、整形外科、疫学、産婦人科、外科、眼科、食育、水科学、バクテオロジー、ウィルス学などの専門家によって構成されている。
インフラストラクチャーでは、数十年にわたってモーリタニアの経済および社会的発展の要として貢献してきた。中でも重要なものは、ヌアクショット自治港、モーリタニア&中国友好港で、これにより小型船から大型タンカーまで寄港できるようになり、モーリタニアへの定期的な物資輸送が可能になった。
その他には、国立美術館、中央医療研究センター、(Centre national de Recherches en
sante publique)、大統領官邸なども建設し、2010建設予定のヌアクショット国際空港の建設も中国冶金建設集団公司が受注した。
これまで、モーリタニアの道路修復工事を中国は数多く手がけ、ヌアクショット〜アタール、ヌアクショット〜キッファ、一部のヌアクショット〜ヌアディブ道路など、主な道路にかかわってきた。2007年のカエディ〜ヌアクショットを結ぶ鉄道、4億7,000万ユーロの工事(そのうち70%が輸出入銀行の融資)を受注した。同鉄道は430km、鉱物資源の開発や、道路沿いの様々な経済発展に大いに寄与するものと期待されている。
また、貧民問題でも中国はモーリタニアに大きく貢献。救貧対策として20億2,500万ウギア(=9億1,125万円)を無利子・融資契約を2006年12月に結んだ。雨不足、一部のサバクトビ・バッタの襲来やその他自然災害により、モーリタニアの極貧層が一段と増大したことで、モーリタニア政府が中国に支援を求めたもの。
教育分野では、中国政府からの奨学金により、年間数名のモーリタニアの留学生が中国の大学、高等教育などで受け入れられている。
スポーツ・青年分野では、中国はヌアクショットにオリンピック・スタジアムを建設した。また、芸術分野で中国の民族舞踊団などが定期的にモーリタニアで公演を行い、両国の親善に努めている。
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