ミステリアスなネマディは狩猟民族の末裔か?
 ワラッタの北部からマリの国境にかけて、人が入り込むことも不可能な無網の空間、広大な砂の海が広がる。そこがネマディの国だ。
 ネマディはモーリタニア人の中で最もミステリアスな人種といわれる。他のモール人とみかけは何ら変わらない : 容姿も同じようで黒人でも白人でもなく、(敬虔ではないが一応)イスラム教を信じ、ハッサニア語を話し、着ている衣類も男性はブーブー、女性はメラッファと他と変わらない。しかし、それでも、他のモール人と違う。
 ネマディの起原はいろいろな伝説があってはっきりしていない。例えば、その昔、船が嵐で難破し、カナリア諸島に流れ着いたヨーロッパ人との混血がここまで亡命してきた、とか、宗教的な対立で追われたイスラム教徒の一派が、罰を逃れてここまで逃げて来たとか。チシットでは、ネマディというのはベルベル語の方言で「犬を連れた狩人」という意味で、ルベル族の血を引くモロッコあたりにからやってきた人達だと言われている。しかし、中石器時代の狩猟民族の生き残りであろうというのが、近年、スイスやフランスの民俗学者の間で取り上げられている説だ。
 
  ネマディも遊牧民と同様、季節によって移動する。が大きな違いは、遊牧民はラクダや羊、ヤギを放牧し、餌になる草木を求めて移動するのに対し、ネマディは家畜は持たず、野生の動物を求めて狩猟することだ。そして、遊牧民やベドゥイン達はテントの中で生活しているのに、ネマディはテントも家財も、家畜も持たない。
 そうした最も原始的な狩猟生活を続けてきた一族だが20世紀後半より、砂漠化が進み野生の動物がいなくなって、チシットの一角や、ワラッタの北側の町はずれに定住するようになった。ネマディの部落で生活している人は現在、百数十人あまり、ぼろ布で覆った粗末な小屋に住んでいる。時折、町に出て民家の下働きをしたり、アカシアの木を彫ってカラバス
(*注1)を作って売ったりして小銭を稼ぎ、日々の食事さえ事欠くような非常に貧しい生活をしている。モーリタニアではハラティン(かつての奴隷)よりランクが下、つまり最下層と見なされ、一般の家庭で同等に扱ってもらえない。世界で有数の最貧人種のひとつとしてとランク付けられているという。
 また、イスラム教のお祈りをあまりしない、ラマダンをしない、死んだ動物の肉を食べる
(*注2) 、野生のイノシシの肉を食べる(*注3)など、きちんとイスラム教の戒律を守らないので、モーリタニア人の間では不敬なイスラム教徒として見られている。

 1970年代、大干魃
(*注4) によって野生動物の多くが死に絶えてしまうまで、ネマディの人々はめったに遊牧民もやってこない砂漠の奥でひっそりと狩りをして暮らしてきた。主に居住地としていたのは、ホッド・エル・シャルギ州の東部、ワラッタの北側、ティシット山周辺、さらにアドラール州のガラウィヤ辺り。言いかえれば、ワダン南部からマリにかけて広がる世界最大の無網地帯、マジャバ・アル・クーブラや、ワラッタの北部の無網地帯ともっとも井戸の少ない地域だった。この地域には井戸が無いので遊牧民や他の部族の侵入が少なく、それがここで生き延びられてきた所以なのかもしれない。

ネマディの狩の方法
 基本的にネマディはヤリと犬だけで狩りをしていた。女性は[血を流すことをしてはいけない」ので、狩猟はせず、水を手に入れたり、肉を干したり、皮袋を作ったり、アンテロープの角で傷ついた犬の手当てをしたりしていた。男の子たちは、父親のように「岩山で大きな野ヤギを仕留めたり、ラクダの背に4頭ものアンテロープを乗せて部落に戻ってくる」のが夢だ。ネマディの多くは銃を使うことは罰あたりだとして忌み嫌った。しかし、Brosset 
(*注5)の調査には、「フランスの銃を持って猟に出た」との記載があり、フランス植民地時代にフランス兵からネマディの間にわたった銃が使われたこともあるようだ。

 狩猟をする際には、ネマディたちはダランと呼ばれる短いガゼルの皮をまとい、白いガッファラという木綿の布で髪を束ねた。ヤリ、または火縄銃や時にライフル銃
(*注6) を肩にかつぎ、犬たちをなだめながら、驚くほどの速足で歩き回った。狩りの邪魔にならないように、ぼろぼろの衣類と唯一の食器カラバスはターバンで腰にくくりつけてある。腰に巻いたガゼルの皮から、日に焼けた筋肉質の腿があらわに見えていた。
 一行は、ラクダを一頭連れ、水を入れたアダックスの皮袋を積んで狩りに出かける。ガリガリに痩せた狩猟犬は5匹頭づつ組になって、皮紐でつながれ、1本ないし2本をネマディが手にする。獲物を見つけると、ずばぬけて頭のよいリーダー犬(スルギと呼ばれていた)が、まっさきに獲物にとびかかり、残りの4匹がそれを補佐するように行動する。
 夕方、一行は寝場所を定め、火をおこし、湯を沸かす。そして乾肉を石で砕き、大麦を炒って粉にしたものといっしょにカラバス(*注1))に入れて湯を注ぐ。犬に水をやり、男たちは円陣を作って真ん中にカラバスを置いて夕餉をした。徒歩で獲物を追うネマディは、持参できる水の量は限られる。その貴重なわずかな水を、犬と分け合って飲んだ。時に一口含んでは口移しで犬に水を与えるなどして。


 狩りの途中、アダックスの足跡を見つけると、仲間の一人がラクダの番をし、残りの物は犬の群れと共にアダックスを探しに向かう。[犬が上手に狩りをできるように」と、ティアフィ(tiafi)と呼ばれる呪文を唱えながら歩いた。狩猟の対象となった動物は、オリックス(Oryx)、アダックス(Addax)アンテロープ (Antelope), ガゼル・ダミ(Gazelle dami)、山ヤギ(ムフロン) など。そして、フェネックや砂うさぎ、時にはとかげまで捕えて食料とした。
 
獲物は、ばらばらに解体し、3日間強力な日差しで乾燥させ、乾肉を作った。中でも、アンテロープの乾肉はチシュターと呼ばれ、非常に美味であるとして珍重された
。皮は女たちが、頭と四肢を切り落として毛のついたまま縫い合わせ、皮袋を作った。乾肉や皮袋は、村の市場に行って主食である粟や犬などと交換した。
 
 今では、アダックスでさえ、伝説の生き物になってしまった。砂漠化と共に痩せた土地のわずかな草木が枯れ、かろうじて生息していたアダックスはもうネマディの国では見かけることがない。それでも、行き残ったネマディの一部は、今でも狩りを続けているという。
 
 *注1 : カラバス : 木をくり抜いて作ったボウル。遊牧民がヤギ乳で作ったヨーグルトドリンクやラクダのミルクを飲む。客がやってくると、まっさきにこの器でヨーグルトドリンク、または水をふるまう。一般に一人で飲みきらない量で、皆で回し飲みする。(下記写真参照)
 *注2: イスラム教では正当な屠殺によらない肉は食べてはいけないとされる。例えば自動車などに引かれて死んだ家畜、腐った肉は食べない。
 *注3: イスラム教では豚は不浄の動物として食べない。イノシシも豚と同類と見られる。
 *注4 :1970年代の大干魃: 1968年〜1973年、1976年、1982年〜1984年の3回の厳しい干魃(かんばつ)でモーリタニアでは家畜の半分近くが死んだ
 *注5 ディエゴ・ブロッセDiego Brosse、 1916年からフランス軍のオフィシャルとしてサハラに駐留し、”Un homme sans Occident"などのサハラ砂漠に関する文献を残した
 *注6 : グラース銃 : 1873年に指揮官Basil Grasによって作られた鉄砲で1874年以降、1900年代初めまでフランス兵が使った銃。薬莢は11mm金属制で当時としては新鋭の銃だった(下記写真参照)



カラバス:アカシアの木を削って作ったボウル。堅く、油がしみ込みにくい。遊牧民はこれでラクダの乳やヤギのヨーグルトドリンクを飲む。上部直径25〜30cm。 グラース銃 M80 :フランス植民地時代にフランス駐留軍からもたらされたといわれるフランス製鉄砲。 チシュター (Tichtar) アンテロープの乾肉

ワラッタで語られている「あるネマディの話」
 
 ある時、若いネマディの夫婦がいた。彼らは犬以外、何も持っていない。テントも家も持たず、自分たちの食べ物を求めて 風のように自由に歩き回る生活をしていた。そこへ一人の首長が通りがかり、気品の漂うすばらしく美しいネマディの女に魅せられてしまった。女をさらって、自分のもとに連れて行き、彼女の気に入りそうな物、幸せになりそうな物は何でも与えて、彼女を宝物のように大事にした。こうして数年間が経ち、彼女はすっかりこの生活になじんていたかに見えた。

 ある日、彼女は砂の上に足跡を見つけた。それはこともあろうに、一時も忘れたことのない彼女の元の夫の足跡だった。その夜のうちに、女は砂漠の中の夫の元へと逃げ出した。その後、二人を見たものはいないという・・・。



ネマディの捕っていた野生の動物
オリックス :体長160〜230cm(オス)の体に80cmもあるまっすぐな角を持つガゼルの仲間。北アフリカに生息する。 ガゼル・ダミ :体長130〜165cm、体重40〜75kg(オス)、ガゼルの仲間で最も大きい。UICNで絶滅の危機に瀕している動物として指定されている。 アンテロープ:一頭5kgから7kgほどで、ジャンプ力が強く、100km/hと足も俊足。1930年代にはセネガル川域のゴルゴールや、マガマあたりまで生息していて、ネマディの主要な獲物だった。
アダックス;オリックスより一回り小さく、体長約125cm。モーリタニアとマリの国境界隈、ニジェールやカメルーンの砂漠地帯に生息する。 野ヤギ (Mouflon) :家畜として定着する以前の野生のヤギでオスが大きな角を持ているのが特徴。アフリカ北部の砂漠地帯に生息するのはOvis ammon musimonという種類らしい。 フェネック : 砂漠に住むキツネ科の動物。体長40cmくらいと小さな犬くらいで、とてもすばしっこい。現地で野営していると、テントの周りに足跡がある。写真は筆者が砂漠で撮ったもの。

ネマディとの出会い

 筆者がネマディについて知ったのはつい最近のことだった。モーリタニアの様々な文献に、数行書かれていた。しかし、ネマディ、ノマド(遊牧民)と似ている上、動物を追って点々と移動して暮らす・・・等で、同じ遊牧民だと思って、全く眼中になかった。2007年暮れ、ワラッタへの旅行を計画していた折に、「La Mauritanie」 (下記資料参照)を読んでいたら、ネマディの美しい話が出ていた(上記参照)。
 「それでも、行き残ったネマディの一部は今でも狩りを続けている。彼らの力が尽きる直前まで、最後のゲルバ(皮でできた水筒)の水の最後の一滴まで、彼らの犬と分け合って獲物を追う。彼らは一口水を口に含むと、口移しで犬に水を与える。」
 なんという民族なのか!ワラッタに行ったら、ネマディに会いたいと思った。その年の旅は、数珠つなぎのように、ネマディに関わることと出会うことになるのである。

 2008年1月にワラッタに着いてドライバーに「食べ物がおいしい宿」と言って連れて行かれた宿、そのおかみさんがネマディだった。結婚した当時は、まだ10代、小枝のように痩せた美しい少女だったと言う。かなり年上の民宿の主人にもらわれて、今では7歳の子を筆頭に4人の子供の母親となり、ふくよかになり、たくましいモール人の母親たちと区別がつかない。
 ネマディはもともと、ネマディの間で婚姻をしてきた。「他の民族と交わらず、結婚するネマディは犬とガゼルなどの皮が持参金だった。長く定住することはなく、夫と数カ月も旅を続けることもあれば、何十日も同じ場所で夫が獲物を持ち帰るのを待っている時期もあった。赤ちゃんは旅の間に産んだ」―――lこうした暮らしを何世代も繰り返しきたネマディも、近年になって少しずつ変わってきているようだ。植民地時代にフランス人と結ばれたネマディがいて、青い目をした白人のネマディもいるという。そして、この民宿のおかみのように、ごく稀に、一般人に嫁いでいる女性も出てきた。子供は[犬の子」といじめられ、ネマディというだけで、今なお社会から蔑視されているからである。

 そして、滞在中チシュター(アンテロープの乾肉)を見たいと言っていたら、ワラッタを出発する前夜手に入った。今でもアンテロープがいるのかと驚いたが、考えてみれば、ティシットやアインサフラに行く途中、ガゼルのような動物が遠くに逃げているのを見たことがある。めったに捕れないが、時折、ティシュターを持っているネマディがいるのだという。ネマディから購入したものは、1kgで数万ウギア、当時の現地小学校の先生の1カ月分の給料くらいの値段だった。そのままちぎって食べたが、際立って臭いもきつくなければ、味も濃くなく(塩もしないで乾してあるのだから当然だが)少し脂分の多い肉だった。この脂分の多い肉によって少しの量でも腹もちがよく、ネマディだけでなく遊牧民にとっても貴重な食べ物だったらしい。

 そのワラッタへの旅の途中、鷹をつれて狩りをしているアラブ・首長国の金持ちのグループに会った。4人のアラブ首長国人ハンターは、モーリタニアに4輪駆動の自動車を置いてあり、それで時折狩猟をするのだという。4人は3台の車に分乗し、他にテントや食料・水を運ぶ車、使用人を運ぶ車などといっしょに数台連なって、砂漠の中を狩猟の旅をしていた。そして、その案内役がネマディだった。アラブ首長国人ハンターらからクルマを一台もらい、自分で運転して走り回っているというのだ。
 モーリタニアやマリの砂漠奥地で鷹と共に狩猟をすることを趣味とする中近東の金持ちは、インターネットで情報を交換し合い、そのうち何組かがモーリタニアにやってきている。遊牧民も足を踏み入れない無網の砂漠に、最新の衛星通信機器と食糧、水、テントを持って、狩猟をするアラブの金持ち、そして、そのガイドをするかつての狩猟の民ネマディ、それも地球温暖化により滅びつつある行き残った民の生きる知恵なのかもしれない。

 


アラブ首長国からやってきた鷹を使って狩りをする人。砂漠の中では野雁を捕まえるのだという。 最新の車、最先端の通信機器を使い、無網の砂漠の中を自由に狩猟する、元砂漠の民 鷹は猟以外は冷房の効いた車の中で大切にされている。夕方、車から出してもらって、使用人たちと休憩
資料 :
 - 「ネマディの最後の狩猟 (la derniere chasse des Nemadi)、1997、フランスの国立科学リサーチセンター(Centre national de la recherche scientifique)が、J.ガビュー (Gabus)の監督により製作した映像
 − Diego Brosset大佐 :1916以降、サハラに滞在したフランス駐留軍の指導者の一人。サハラに駐留した折の報告書 ”Bulletin de l'Afrique de l'Ouest Francaise"の中で”Les Nemadi"、1932
 - D..Brosset大佐 : Un homme sans l'Occident, Harmattan 1991
 - J.Gabus :  ”Contribution a l'etude des Nemadis" 1951 スイスのNeuchatel人類学研究のレポート
 - J.Gabus : Walata et gueimare des Nemadi 1976 (1975/12/19〜1976/5/29の民族学調査による滞在のレポート)スイスのNeuchatel民族博物館蔵。
 - Christine Daure-Serfaty ”La Mauritanie"1993