都会の人々の生活  / 遊牧民の生活 /沙漠の船、ヒトコブラクダ / 食事 / モーリタニア人の歳 / 
モーリタニアの民族衣装 / 茶の儀式  / なつめやし / 井戸事情 / 
沙漠の覇者・ベドウィンのたどった道 / 希望街道 / 沙漠化 / 進出する中国


都会の人々の生活
 世界中どの国の大都会に行っても、都会の人の生活は多少差はあれ、ほとんど同じようなレベルではないかと思う。ヌアクショットやヌアディブの都会の人々はどのような生活をしているのかと問われたら、やはり、街に舗装道路、街灯があり、車が走って、オフィス街にはネクタイを絞めたビジネスマンが行き交い、家は水道や空調が完備、テレビがあって水洗トイレがある生活。ただしアフリカの中でも貧しい国の数番目に入る国であるから、その規模は日本の地方の県庁所在地都市より小さいと思ってよい。

 そして何より、この文化的生活を営むことができる人々は、ヌアクショットではごく一握りの金持ちだけ。7割以上の貧民層はかろうじて裸電球ひとつの、水道・下水設備も電話もない家に住み、ロバにドラム缶を積んで売りに来る水を買う生活をしている。

 ごく一握りの金持ち、鉄鋼や漁業、省・官庁などの利権を掴んだ人々や代議士、地主…etcは、ひときわ豪華な家に、外国から輸入した立派な家具に囲まれて住んでいる。ヌアクショットやヌアディブの国際空港に行くと、ゴールドやダイヤモンドをきらめかせブランド物で着飾った男女が家族の送迎に来ている。国際空港に出入りするモーリタニア人といえば、ビジネスマンかこの一握りの金持ちくらいしかおらず、一般人には全く用のない所だからだ。

  そして、ヌアクショット住民の2割くらいの中といおうか中上流階級。地位の高い官庁の役人や大手企業の経営者などがそれに続く。彼らは、日本の戦後、大勢の家族が小さな家に住んでいた頃の一般人の生活に似たような暮らしをしている。
  そしてヌアクショットで最も大部分を占める下層階級。1970年代の人口が増加しはじめた頃は、近隣の定住者がより良い仕事を求めて移住してきたか、セネガル河流域の農民が農閑期に出稼ぎに来るパターンだった。1980年の大干ばつの後は、ラクダなどの家畜が死に絶え、近隣だけでなく地方の遊牧民が、遊牧の生活を捨てて都会に仕事を求めて来る人々が増えた。

  地方から出てきてもすぐに仕事が見つかるわけではない。親類があればそこに身を寄せて、数ヶ月、あるいは数年もかけて探す。ヤギや羊を捌いて何がしかの賃金を得たり、のこぎりや電球を手に街角に立って、家の修理や電気の修理を依頼して来る客を待ったり、食べていくためにありとあらゆる知恵を働かす。土地を郊外の安いスラム街に求められればまだまし、そうでなければ、空き地に棒とぼろ布を家を作って住んでいる。毎日の食事もきちんととれないような悲惨な暮らしだ。



 空から見たヌアクショットの町。砂丘の上に町が作られ、年々拡大している。



ヌクアショットでは、近隣でとれた野菜が手に入る。フルーツはモロッコやセネガルから輸入されたものが多い。

遊牧民(NOMADE)の生活
 モーリタニア人はもともと、南部の河岸の緑地で農耕を営む人や、都市部の宗教・教育関係者などを除いて、ほとんどが遊牧民だった。ラクダややぎ・羊を飼いながらテントで生活している人々は、家畜の餌を求めて年に何度となく移動する。

 遊牧民がテント生活している部落をキャンプ(campement)という。キャンプでは1つないし3つくらいのテントに家族や親類が老人から孫、時にはひ孫まで3〜4世代が数人で住んでいる。これが、数個から数10のテントが集合しているとブルース(Brouce)=部落と呼ばれている。地方によってはテントではなく石や土でできた定住型の建物の集合体であったりする。
 普通の遊牧民の家庭では、父親と男の子供らがラクダやヤギ、羊の放牧に終日沙漠の中を歩き回る。その行動範囲は数〜数十キロにもおよび、1日から1週間、時に数ヶ月も出かけたままということもあるという。

ラクダで旅をする遊牧民 ラシッドの傍のテントで生活していた遊牧民の一家。手作りのパッチワークがみごとだった。

 婦人や女の子、5、6歳くらいまでの男子は家事つまり食事を作ったり掃除をしたり、火を燃やすための薪を集めたり、ヤギや羊の乳絞り、または戻ってきたヤギ・羊を小屋に入れる世話をしたりする。またロバにポリタンクをくくりつけて水を汲みに行くのも主に子供、女の仕事である。井戸は時には5〜25kmも離れていることがある。いくら慣れているとはいえ、土地の人々にとって水汲みはたいへんな重労働だ。

 もうひとつ、女にとっての重労働がクスクス作り。洗面器をザル状に穴を開けたような容器に小麦とオリーブオイルを入れてこねながら、この穴から粒上のパスタを作る。何度も容器を通して、2から4mmくらいの小粒にする作業で、かなりの力仕事だ。この作業の影響で中年を過ぎた女性に肩や腕、腰痛が多いという。



クスクスは小麦粉(セモリナ粉)にオリーブオイルを加えて、ざるを通して作る2,3mmのパスタ


クスクスを蒸している間に、肉や野菜のシチューをつくり、それをかけて食べる。


クスクスを食べる子供た

 テントは、ラクダや羊の毛を編んで作った黒いピラミッド型のテントが一般的。3ヶ所を地面とくっつけて風や砂を防ぎ、1ヶ所は出入り口として開ける。その中に、むしろのような草を編んだものを敷き、さらに絨毯や毛布が敷き詰めてある。日本の大型枕のようなクッションをあてがって、横座りしたり、寝っ転がってお茶を飲みながら団欒する。
 最近ではこのテントも昔ながらのラクダ・羊の毛を編んだ手の込んだものより、西洋のキャンパス生地を使って、内側にカラフルな布地をパッチワークした白いテントが普及し始めている。
 1年に何回となくテントをたたんで移動する遊牧民達は極力荷物を持たない。最低限の衣類の入ったつづらと食糧袋、茶道具と鍋や大皿または皿代わりに使う洗面器がひとつかふたつ。
 ある日、家畜の餌が少なくなったと家長が判断すると、翌日瞬く間にテントをたたみ、餌を求めてラクダで引越しする。家と物に執着し、身軽に動けない私達日本人にとって学ぶべきところがある習慣かもしれない。

 家族の関係は江戸時代の日本人にかなり似ている。家長の絶対的権力、長男が家を継いで、長男以外の男の子供はたとえ賢くても長男が家長についで権力がある。
 客人がある時は、食事は男と客人だけが同席し、女・子供は客の見えないところで、男と客人が食べ残したものを食べる。



モーリタニアの人種

 モーリタニアは「モール人の国」という意味で、シンゲッティを中心に国内に広く住んでいたモール人を中心に、南部のセネガル川域からマリ、セネガルに住む、プ―ラール族や、ソニンケ、ウォロフといったブラック・アフリカンと混合した社会を作っている。

 そうした人種とは別に、独特の生活スタイルを持つ人がいる。イムラゲンというバン・ダルゲンでイルカと共に漁業を営む人たちと、ネマディという砂漠の中でもとりわけ井戸の少ない無網地帯で、狩猟をする人である。モーリタニア人は遊牧民で、もともと魚を食べないし、家畜をイスラム教の教えに従って屠殺したものを食べる人達である。従って、この国で、漁を捕って食べる、狩猟した野生の動物を食べると言うのは非常にまれな生活スタイルなのである。

 また、モーリタニアには階級制度があり、奴隷制度が最も近年まで残っていた国でもある。しかし近年、砂漠により家畜を失った砂漠難民となってヌアクショットやアタールなどの大都会に流入し、仕事もなく、空き地にぼろ布で覆った小屋に住む非常に貧しい遊牧民が増えた。奴隷の子孫は奴隷のような生活しかできない社会だが、ともかくも住む家と主人がくれる食べ物がある。ところが砂漠難民はそれ以下の生活に甘んじなければならない。

 * 狩猟の民の末裔 ネマディ

 * イルカと共に魚をとったイムラゲン
 
 * モーリタニアの奴隷制度


沙漠の船、ヒトコブラクダ

 遊牧民たちはラクダを「沙漠の民への神様からの贈り物」として、権力と豊かさの象徴として家族以上に大切に育てている。遊牧民たちからいろいろなヒトコブラクダの話を聞くにつけ、不思議がいっぱいの魅力的な動物だ。
 
★たいへんな力持ち : 「沙漠の船」と呼ばれ、輸送手段として使われた: 馬などに比べて頑丈で太い骨格と頸部靭帯を持ち、重い荷物も持つことができる。300kgもの荷物を背負うことができる。

★長距離を早足で歩ける : 1日80kmも歩くことができる。荷物を持たない時には25km/h速度で歩くことができる。

★こぶはエネルギーと水分の補給源: こぶの中は脂肪質、それが水に代えられる世界でたったひとつの動物。

★体温が6℃も上下できる : ラクダの体温は、暑い中では体温が34℃、そして涼しい中では42℃に変化。こんな体温を持つ動物は他にいない。

★何日も水を飲まずにいられ、そして1回の水の飲む量と速さは他の動物ではまねができない: 2週間〜5週間も水を飲まずにいることができる。15分間で200リットルの水を飲むことができる。

★エサの無い時には小食でも生きていられる :沙漠の食糧の少ない時期、場所で生きられるような独特な胃袋とこぶがある。5〜8日間も、何も食べないでもいられる。

★尿の濃さは海水の2倍、尿の量は体重の1/1000、そして大便の量は牛の1/10。

★とげの間の葉を食べる不思議な口 : つまようじが四方に向かって突き出ているようなアカシアの木の、トゲの間の葉が大好物。どうやってトゲがささらず食べられるのか

★栄養価が高く、雑菌が少ないミルク : ヒトコブラクダのミルクは、ビタミンミネラルが牛乳の3倍、そして抗菌性がずば抜けて高い。

★パワルフなオス :オスは一頭でグループ全部のメスをコントロールする。交尾は一晩中、または一日中、そして、1シーズンで70頭ものメスに交尾する。

★過酷な乾燥地帯、砂丘や岩だらけの沙漠に対応できる様々な特殊な体の構造、エサの少ない中でも生きていられるワザがいっぱいの動物

★沙漠では冬の夜間に0℃以下になることもあるが、夏の日中は50℃を越える。地面の温度は70℃近く。そんな中を歩くことのできる特性クッションの足。

詳しくは 不思議な動物 ヒトコブラクダのページへ


教 育
 男子は5,6歳になると小学校やコーランを教える私塾へ通う。遊牧民たちの子供は、学校のある時期だけ、親類や知人の家に住んで学校に通う。遊牧民たちは女子に教育は不要と考えていたので、女子が小学校に通うようになるのは、ごく最近になってからである。2005年以降、モーリタニア政府は教育実施を広く国民に呼びかけ、地方の小学校を充実させている。しかし文盲は国民平均で男性46%、女性68%と高く、地方に行くほど文盲率は高くなる。そして、12歳から17歳の中学に進学する児童は全体の20%と、まだまだ国際的レベルまでは遠いようだ。

食 事
 フランスの植民地になった多くの国々では、フランスの残したものを徐々に排斥していくのだが、フランスパンを食べる習慣はなぜか残っている。モーリタニアも本来小麦の料理か、米料理を主食としていたが、フランスパンが定着し、沙漠の奥地でもパンが手に入る。

 モーリタニアの朝食はお茶とパンで始まる。最も、遊牧民らはラクダやヤギの乳を水で薄めて砂糖を入れたものをお腹いっぱい飲むだけという人の方が多いが。

 昼食は午後3時ごろ。ヤギ、羊、ラクダの肉を塩茹でしたか炭火焼きしたものを食べる。そして残った骨を集めて米、またはクスクスのソースとして調理し、1時間以上もたった頃、メイン料理が出てくる。田舎では新鮮な野菜が入手できないから、残った肉と骨で、トマトや玉ねぎ、豆類を煮込んだソースがほとんど。

 夜も同じパターンで9時過ぎに食事が始まる。もっとも、多くの家庭では毎日家畜を調理できないので、肉料理は月に数回のごちそう、ヤギやラクダの乳から作ったバターで味をつけただけのご飯やクスクスが昼、夜の食事という質素なものだ。

 ヌアクショットやヌアディブの近代的な家庭の人々は、肉を煮込んだものをごはんにかけた料理、魚やフライドポテト、コーン、ジャガイモ、トマト、ツナなどのミックスサラダ、鳥のから揚げやクスクスなどと食材も豊富なことから料理のバリエーションは多い。(こんな料理は都会の一握りの金持ちしか口にできない。)国民の9割を占めるモール人は魚を食べる習慣がなく、魚料理を食べるのはヌアクショットやヌアディブの一部の人々だけである。

 来客の時は、食事時間になるとテントの真中に主人やボーイがビニールクロスを持ってきて地面に敷く。次に、手洗い用具を持ってきてそれぞれにやかんで水を注いでくれる。現地の人はイスラム教なので使う右手だけ洗うのが普通。手洗いが済むと、なつめやしのオードブルが出てくる。大きな皿に山盛りもってあり、ヤギのバターをつけて食べる。その後大皿に盛られた肉料理が出てきて、それを全員で取り囲んで手で食べる。肉はみんなで手でちぎったり、主人がナイフで切り分けてくれたものを手で食べる。

 肉料理の後の、ご飯やクスクス、スパゲティは手でお握りのように丸めて食べる。私達も同じように食べようと何度もチャレンジしたが、ご飯やクスクスが手にくっつくばかりでなかなかおにぎりにならないし、まわり中パラパラ落ちて、なかなか上手に食べられない。

             
 現地人たちの食事風景。肉もクスクスも手で食べる。 都会の祝日のご馳走。生野菜のサラダやクスクスも田舎のものと違ってゴージャス! ラクダのレバーのグリル。めったに食べられないものらしいが、歯ごたえがあってとてもおいしいものだった。

モーリタニア人の歳
 遊牧民の生活をしていると、朝日と共に起き、日が暮れると寝る、カレンダーも時計もない生活をしてきたので、多くの高齢者は自分の年齢を知らない。××が起きた年に生まれたとか、○○があったから何年生まれとかで自分の年を記憶している。
 さらに出生届の義務が徹底していなかったので、誕生日はもっと知らない人が多い。近年、全国で身分証明所を発行した際、誕生日のわからない人は1月1日生まれとされた。高齢者に生年月日はと訊ねると、1月1日生まれが多いのはこのせいである。

 全国規模の国政調査を始めたのは実は2004年、出生・死亡届の義務を進めているが、都市から遠く離れたキャンブに住む遊牧民や、ヌアクショットなどの大都市に流入している地方からの難民などは、そうした義務を遂行するより食べる方が先決問題で、国勢調査が徹底できないでいる。


民族衣装
 沙漠を旅していると、沙漠の中を遠くからブルーの衣装を風になびかせて男の人が歩いてくる。えも言えず、優雅で軽やかな足取りにかっこいいとほれぼれ魅入ってしまう。これがモーリタニアの男性の衣装、ブブー(Boubou)だ。日よけ、砂よけを兼ね、遊牧民らはこのブブーのまますっぽり頭からかぶって、砂の上でも木陰でも寝たり野宿できたりする実用的な衣装だ。
ヌアクショットのような大都会でも、一部のビジネスマンがスーツで仕事をしているが、ほとんどの男性がこれをまとっている。

 ブーブーは幅3、5mの身長の倍ほどもある布の真中に首を出す穴をあけ、胸の前にポケットをつけたような衣装で、サイズは1サイズだけ。白、空色、ブルーの3色があり、刺繍の程度によって値段が違う。一番シンプルなものは3,000ウギア(約1500円)、高級なものはバザンと呼ばれる紋織りの綿の布にハンドクラフトの刺繍を施したもので、一着数万ウギア(初任給の学校の先生の給料が20,000ウギア)もする。最近では、めいどいん中国の安価なものが出回る一方、都会の人々はいろいろな地模様のブーブーでおしゃれを楽しむようになった。
 
 頭にまくターバンはハウリ (hawli) と呼ばれ黒、白、カーキ色のコットン製で夏・冬用の厚手、薄手のものがあり、好みで選んでいる。
 
 ブブーの下にはアラブ風パンツ、サラワール(saroual)をはく。ブルマーのおばけのような、ギャザーのたくさん入ったひざ下までの七分丈のもの。最近、下変わりにジーンズやズポン、ショートパンツを履いている男性が増えた。

女性の民族衣装メラッファを着た婦人 ブブーを着た少年  ブブーを広げるとこんなに巾がある
メラッファのしたやかな曲線は女性を優雅に見せてくれる美しい衣装だ。風除け、日よけ、砂よけの機能を果たし、暑い時に着る羽のような薄い布はすずしい。そして、冬の厚手のものは寒い中で温かい。
 そして女性がまとうのがメラッファ(melhafa) 。生地の名前でヴォワル(voile)とも呼ばれている。幅180cm、長さ4mくらいの薄いコットンの藍染めの布。 首から下に巻き付け、最後に頭の上をカバーしてふんわりと包む。藍染めした布を水洗いしないでそのまま身につけるので、肌や下着に色が移るが、虫除け、日よけ、寒さよけの意味があった。

 最近はインド・パキスタンあたりから輸入される色とりどり、いろいろな模様のヴォワル地が市販されており、透けた布地になったので、下にひざ丈のワンピースを着るようになった。日本のカネボーという高級素材の物もある。縞模様、絞り染め、ツートーンカラーなど都会に行くほどヴァリエーションも豊かになり、流行などもある。モーリタニアでは同じイスラム教でも他のアラブの国々のように宗教上の理由で顔を隠すことはない。が、強烈な風や砂をよけるのになくてはならない衣類なのである。

モーリタニアでは、このブブーの男性とヴォワルの女性たちの姿が砂丘や土・石でできた建物と非常にマッチして絵の様に美しい。ただ、私達日本人がこれを着ようとすると裾はからまってとても歩きにくい上、頭の上はずるずる滑り落ちて瞬く間に着崩れしてしまい、外国人が着物を着るようにむずかしい。


女性の問題

 モーリタニアは1960年に独立し、それからわずか50年余り。独立当時、ほとんどの国民が遊牧民だった国民の生活の中には、現代の習慣とはだいぶ違う伝統的な風習が残り、今なお続いているものもある。

 - 女性の肥満と強制肥満(ガバージュ)の問題 : モーリタニアは太った女性が豊かそうで美しいとされる。15,6歳の嫁入りの年頃になった時に痩せていると、その家庭は貧しいとか、きちんと太らせる家庭教育もできない家とみなされ、その為に少女が無理やりミルクを飲まされ、胃を大きくさせる強制肥満の習慣があった。強制肥満は後に糖尿病などの病気をひきおこし、また太りすぎで膝や腰痛を招くなど健康問題につながっている。政府は強制肥満は止めさせるよう指導しているが、習慣が変わるにはまだ長い時間が必要そうだ。

 - 女性の地位 :
 多くのイスラム圏の女性たちのように、モーリタニアの女性たちの地位は明治時代以前の日本人女性の生活に近いものがあった。15,6歳でお見合いのような形で結婚し、時には相手が50,60歳の老人ということもある。家事が下手だとか性格が悪いとかで男性側から一方的に離婚を言い渡される、そしてサイフは夫が握り、食材から衣類すべて夫が買うという家庭が一般的だった。

 2000年になってからようやくその女性の立場が改善され、適齢期が少しづ遅くなり、離婚も女性から申し出ることが許された。2003年に女性の人権に対する法律ができ、選挙権も与えられた。しかしそれでも、地方の40代以上の女性の文盲率が68%にものぼり、60%が貧困線以下の生活をしているという(国連調査による)。
 
 セネガル河流域、希望街道から南部に住む黒人系の貧しい男性たちは、都会に出て気に入った女性がいると簡単に同居する。赤ちゃんができて女性が「収入が少ない、食べ物を持ってきて」と言い立てると、そのうちフラリといなくなってしまう。残された乳飲み子を抱えた女性は、運よく養ってくれる男性とめぐり合えればよいが、そうでないケースのほうが多い。教育を受けていない女性たちは、働く先もなければ、自分で仕事をすることも難しい。親類や近所から食べ物を恵んでもらうこじきのような生活をすることになる。一方、フラリと出て行った男は、またどこかで気に入った女性といっしょに暮らし、先の子供の養育など微塵も考えない。

 ヌアクショットのスラム街でインタビューした時、このような生活の男女の話ををたくさん聞いた。

 - 女性器切除 :
 少女の性器(クリトリスや小陰唇の一部または全部の切除、膣の入り口を縫合してしまう風習で、これも主に希望街道から南部の人々の間に残っている。かつては成人の女性に施されたのが、若年化が進み4,5歳から10歳の間くらいの少女が施術された。出産の陣痛を軽減する、受身なタイプになる、他の男性への性的欲求をしないなどの理由によるものだという。地方では衛生環境も整っていない中、専門の壮年女性がカミソリの刃などで切除し、大量出血や感染症などで死亡する子供もいた。

 この女性器切除は国連大使のワリス・デイリーの「沙漠の女ディリー」に詳しいが、さまざまな弊害もあり、1990年ごろから世界的に排除が呼びかけられるようになった。しかし、こちらも女性の肥満同様、母親が切除することが嫁入りのための準備と考え、幼児を施術したがり、全面的な廃止にはいたっていないようだ。



茶の儀式

 モーリタニア人は世界でも有数なお茶の消費国だ。彼らは何かにつけお茶を飲む。自宅で、来客の時、オフィスで、テントの下で、ヤシの畑で、沙漠の中で、ガソリンスタンドで給油している間に、漁船の上で、そして食前、食後、食べ物が無い時・…etc. 朝から夜まで何回となく飲む。

 日本の煎茶の儀式のように、モーリタニアもお茶の入れ方があり、子供の頃から親や親類に教えてもらう。200ccくらいしか入らないような小さなホーローのポットに水を沸し、途中お茶とかなりの量の砂糖を入れて沸騰させる。沸いたらおちょこのようなガラスの茶わんに70cm〜1mほど上から注ぎ入れる。これだけ高くかかげて直径3cmくらいしかないグラスに注ぎいれるのだから、こぼさずに入れられるようになるには年季がいる。お茶のセレモニーであり泡を作る為なのだそうだ。

 注ぎ終わったグラスからお茶を再びポットに戻し、コンロで再び温めて再度、注ぎのセレモニーを繰り返す。こうして人数分に分けたものをお盆にのせてそれぞれに呈する。

 お茶は何でも良いわけではない。SONIMEXというヌアクショットの公団が輸入した中国の緑茶 NO.8147でなければならないそうだ。これ以外のお茶では「しょんべん草」と嘲弄される。だから、モーリタニアではどんな田舎にいってもこの番号の入った木箱が売られている。場所によってはこれにミントを入れる。

 お茶を全員に一回りすると、また同じ作法で入れ、3回出すのが普通。3回終わるまでに30分〜1時間かかり、その間におしゃべりをしながらいろいろな情報交換するのである。

 モーリタニア人が旅に出かける時、衣服を忘れてもコンロと茶セットだけは絶対持って行くという程、モーリタニア人にとっては切っても切れない嗜好品なのだ。確かに、とても甘い飲み物だが、沙漠のカラカラに乾いた気候にあって、このお茶を飲むと喉の渇きがピタリと止まる。きちんと3食とれない人々にとって、エネルギー源でもあるのかもしれない。

 お茶がアフリカに持ち込まれたのは15世紀。西アフリカにポルトガル船が運び込み、トンブクトゥーまでキャラバン隊が運んだ。ヨーロッパでお茶を飲むようになるのは17世紀、イギリスやオランダ人が輸入するようになってからのことである。

 モーリタニアに「アテイ(atei)」といわれる茶の習慣がもたらされるのはそれから遅れて19世紀になってから。マラケッシュの茶道がアルゲン湾界隈の住人の間に広まった。それが鎮静の効果があるとしてアドラール地方に1870年〜1880年頃伝わり熱狂的なファンができた。南部モーリタニアに伝わるのは、20世紀になってフランス人らによるらしい。

コップを高く上げて次々とお茶を注ぎ、泡をたてる。 1回のお茶は2口分程度。全員に回った後、再びお茶を立てる。こうして3回たてる。 なつめやしの畑の中、休憩時間やランチの合間にお茶をたてる。やっぱり、3回
イムラゲンの漁師も船の上でお茶 砂丘の上でもお茶、 アカシアの木の下でお茶


なつめやし

 なつめやしは「神様の贈り物」といわれ、メソポタミア時代から栽培されていたという。私達日本人がよく知っている椰子の実とは違い、細い軸に数十個のオリーブのような形をした実がなり、これが一本の木に数十本の束でなる。

 実が青いうちは渋く、柿の味に似ている。最近、日本でもデーツと言って輸入食品売り場に見かけるようになったが、これは木になったまま乾燥させてたもの。干し柿に似た甘いドライフルーツだ。 なつめやしはモーリタニア内で栽培されているものだけで7、80種類もあるという。オリジンは不明だが、いろいろ掛け合わされたりして小さい実、大きい実、細長いのや太った実、乾燥すると黒くなるのやうす茶色、こげ茶色になるのなど、はちみつのようにジューシーなのからパサパサに干からびたものなど、いろいろなデーツがある。

  木は雄株と雌株があり受粉させる。なつめやしの実が地面やヤシの木を覆っているワラ状の皮の間に落ちて、しばらくすると芽が出て小株に育ち、それを株分けして育てる。なぜか、やしの実の種を蒔いたものは育たないと信じられている。

  なつめやしの収穫は7月末〜8月。収穫祭ゲトナ(guetona)と呼ばれ、モーリタニア人にとって一年で最大のイベントだ。遊牧民も都会の人もこの時期には先祖代々のヤシ畑のあるところに戻ってくる。この時期に家畜の餌になる木が近くにない時は、父親と手伝いの男子だけ単身赴任し、女子供らはヤシ畑のそばのキャンプで生活する。ほとんど毎日おなかいっぱいやしの実(まだ渋味の残る青い実)を食べ、夜になるとダンスタイム。楽器をならし、歌をうたい、口笛をならして躍る、毎日がお祭りのバケーションの時期だ。

  遊牧民になりたいと願っていないモーリタニア人はいないという程、都会に住んでいる人々にとっても遊牧民の生活は切り離せない。だから、ゲトナの間休暇をとってキャンプに戻る都会のビジネスマンも多いという。

 やしの木は、アカシアくらいしか木がない沙漠の人々にとっては貴重な生活必需品で、捨てるところがない。枯れた葉は垣根や屋根に、根や繊維はクッションの中身やラクダの鞍に、幹は家やテントの柱やトイレの敷板に、そしてヤシの木1本まるまる使って井戸の水汲み用のテコになる。

 普通、モーリタニア人の家に食事に招かれるとまず、オードブルとしてなつめやしが出る。場所によってはヤギの乳から作ったバターやヨーグルトをつけて食べることも。毎日、ヤギや羊は口に入るとは限らない上、野菜がない土地柄、大事な栄養源だ。


 実が大きくなり始めたなつめやし。ゲトナ(収穫時期)が楽しみ! やし畑の水遣り。今はモーターポンプで水をくみ上げるが、2005年くらいまでは、ほとんどが手でくみ上げるたいへんな重労働だった。 7,8月はナツメヤシが熟して、赤や黄色に実る。アタールやワダン、シンゲッティなど、場所によって種類が違い、収穫時期も違う。熟したヤシの実は日本の柿に味が似ている。


井戸事情

 サハラ沙漠を遠方から金や塩を運ぶキャラバン隊にとって井戸は命のかてだった。沙漠に点在するオアシス、つまりヤシの畑には必ず井戸がある。だから、旅人達はヤギの皮で作った袋に水を入れ、アオシスをたどって旅をした。

一方、遊牧民にとっても命の水。私達日本人ほど水を飲まないですむような習慣を身につけているが、沙漠の中を一日放牧して歩き回るので、井戸のある所を中心に生活する。

 年々沙漠化が進むモーリタニアではその貴重な井戸が次々と涸れ、激減している。さらに深刻な問題は井戸の水位が下がっていること。水面が100m近くという井戸は、大人の男の力でもなかなかつるべを引っ張り上げることができず、ろばやラクダ、時には車にロープをくくりつけて引き上げる。

 近年になって日本やヨーロッパからの支援で、南部の希望街道沿いに数百本の井戸が作られたが、北部やチジクジャから奥地の地域では相変わらず井戸は重大問題だ。
2008年初頭、ヌアクショットの水道の普及率は30%。都会ではロバ荷車に乗せて水を売りに来る。 2008年、セネガル川からヌアクショットまで水道を引く工事が始まった。直径1.5メートルもある水道管がヌアクショットからロッソ傍まで並べてあった。 都遊牧民たちは、ヤギや羊の皮で作った水筒に入れ、日陰につるす。こうすると、気化熱で水筒の水が冷たくなる。
歯ブラシの木

 モーリタニアで医者と歯科医によるボランティア活動を10数年続けてきて、近年とみに砂漠奥地の人々の歯の事情が悪化している。質素な食事、流通が発達していなかったので砂糖が今ほど国内に普及しておらず、今のように甘いお茶を一日何杯も飲まなかった。そして、イスラム教の教えにしたがって、終日ソアクの枝で歯の手入れをしていたので、昔のモーリタニア人は真っ白の健康な歯だった。

  さて、歯ブラシのない時代に、歯の手入れはどうしてきたのか。モーリタニアのソアクという歯ブラシの木はどんな木なのか?

 フランスの文献によれば、歯ブラシが初めて使われたのは中国で15世紀ごろだという。竹の軸に、イノシシや馬の毛をつけた歯ブラシがつくられていたらしい。ヨーロッパでは19世紀になってようやく一般に普及したらしく、それまで、ガチョウの歯根や銀、銅でつくられたつまようじで歯の手入れをいたという。
 
 モーリタニアではようやく2008年ごろから歯ブラシが普及し始め、中国製の安い歯ブラシ、歯磨き粉が手に入るようになって、急速に普及しつつある。それまで、いや、今なお広く使われているのが、ソアクによる歯の手入れ。

 ソアク(souak)は、ミスワク(miswak)、シワク(siwak)とも呼ばれ、バビロンの時代、約7,000年前から使われていた。その後、ギリシャやローマ帝国に普及、ユダヤ人、エジプト、イスラム教徒の間で使われるようになる。今日、アフリカ全土、南アメリカ、アジア(インドやパキスタン)、中東など広く使われている。

アラクの木:様々な効能
 ソアク(以下、すべてこの単語で表記)は、アラブ語で”アラク”と呼ばれる木。学名はSalvadora Persica、西洋では”歯ブラシの木”と呼んでいる。サウジアラビア、チャド、スーダン、エジプト南部やインド、パキスタンなど広域に分布する1〜2mの灌木。木の枝の葉を落とし、熱湯やバラ水に数時間つけて柔らかくし、それを噛んで繊維質がブラシのようになったものを使う。

 イスラム教では、-お祈りをする前、コーランを読む前、 -起きた時、 -長時間話をしなかった時、にソアクを使えと教えているらしい。預言者モハメットは特に目覚めた時に、アラクで歯を擦るのを好んだとされる。ソアクは、口内の滅菌作用、口臭を減らし、虫歯を予防、歯を白くする、歯ぐきに活力を与え収斂性をj強化する、などの効能があると言われている。

 ソアクの効能について調査が行われたのは、2003年、アメリカの国立バイオテクノロジー情報センター(National Center for Biotechnology Information)[1]で、歯ブラシとしての効能があると結論づけた。一方、世界保健機構でも1986年、2000年[2]にソアクの使用推奨を発表している。研究によれば、ソアクの中に、歯を強くするフッソ成分と、歯ぐきの出血を抑えるビタミンCを含んでいるとされる。
 
 また、スウェーデンのカロリンスカ口腔研究所での論文では、歯ブラシとソアクの比較実験を行い、ソアクを使うと歯のプラーク(0.001)、歯肉指数(0.01)を抑えるとし、ソアクを正しく使用すれば、歯ブラシより効果があると発表している。

 ソアクの小枝やエリキシル剤は、利尿の作用や膀胱の浄化の効能があることから、中風や潰瘍の薬にもなっている。また、胃腸内のギョウチュウに効き、乳の香りがよくなると家畜の飼料にも加えられている。

 近年、ソアクの成分を含む歯磨き粉が、モロッコやフランス、アラブ諸国などのナチュラルハウスなどで売られている。
 
 ソアクをする子供の映像

    ソアクの木の枝   ソアクを加えた子供たち

沙漠の覇者・ベドウィンのたどった道

 サハラ・オキシダンタルの遊牧民の戦いの歴史はオリエントからやってきたベドウィン族との戦いに始まる。

  まず、古代イエメンを元祖とするベルベル族の襲来。この一族は3つの大きな部族、ラムツナ(Lamtuna)、 グダラ(Gudala)、 マッスファ(Massufa)がサンハジャ(Sanhaja)同盟のもとに団結した。この一族が11世紀にアルモラヴィド(Almoravides)という武装宗教団の核となって、アフリカ北部一帯からスペイン南部にまで大きく勢力をのばすことになる。
後、モロッコやスペイン・アンダルシアでの権力が衰退すると、ベドウィンはサハラ沙漠に戻ってくる。

  16世紀になるとエジプトのアラブ族がマグレブ諸国(今のモロッコ・アルジェリア・チュニジアあたり)に定着する前に、サハラに移住し始める。中でも有名なベニ・ハッサン(Beni Hassan) は北アフリカにわずかな間滞在しながらサハラへと移るのである。ある歴史家に言わせれば「沙漠の外のベドウィンは水の外にいる魚とおなじようなものだ」と彼の行動を分析している。こうしてまったく違うアラブとベルベル族の二つの文化、それでいて沙漠の中に生きるのを本性とする共通の文化を持った民族が交じり合う歴史が始まった。

  やがて、これらのアラブ・ベルベル文化はモール(Maure)という社会を作り出す。
 20世紀初め、サハラ一帯フランスの植民地化となった。それぞれの国境は「国の秩序を守り、遊牧民=誇り高き強盗団の勝手な往来を管理する」という名目で、軍隊やポリスが設置された。

  1960年にモーリタニアやマリが独立すると、ベドウィン族は新しくできたばかりのそれぞれの政府に従わなければならなくなった。今、モーリタニアに住む9割がこのモール人である。
 一方、サハラの北部に住んでいたモール人らは1975年までスペインに管理されることになる。   (Rahal Boubrik 著 抜粋)

希望街道 (Route de lespoir)

 ヌアクショットからモーリタニア南部を横断してマリとの国境ネマまで1099kmの舗装道路。1970年にかの有名なトランス・アマゾンを作ったブラジルの企業が落札、工事を開始した。このトランス・モーリタニアンを作るために、2000人以上の作業員が昼夜働き、400台以上のブルドーザーなど大型建設機械が稼動したという。

 この工事がどのような規模だったか、1例をあげると、ヌアクショットから街道を進むと最初にある大きな町キッファ(604km) 、ここまでの舗装道路を作るのに10トントラックが450回機材を運ばなければならなかった。ともかく壮大な工事だった、しかも、冬でも日中30℃以上、夏の炎天下で50℃を越える中での過酷な作業だったか想像できよう。

 ヌアクショットの町はずれ、貧しい住宅が建て並ぶ居住地区を抜けると、街道の周りにいきなり何もなくなり黄色やオレンジ色、ベージュなどの折り重なる砂丘が見える。これがトラルザ(Trarza)の砂丘。

 53km地点、ウァッド・ナガ(Ouad Naga)村。土でできた民家と遊牧民とテントが入り交じって建て並ぶ村だ。
 次にくるのが大きな町ブーティリミット(154km)。そして乾湖を過ぎるとこじんまりしたアレグ(262km)と続く。小高い丘の上にある、かつてのブラクナ(Brakuna)首長の中心地だったところ。このあたり一帯は広大な放牧地となっている。

 希望街道はいくつもの丘を越えマグタ・ラハジャ(Magta’Lahjar)の町へ。小さな町のわりに日中、町の人々が往来にあふれごったがえす町だ。
 村とも部落とも気がつかないほどのひっそりとした部落がカンガラファ(Cangarafa)で、ここでチジクジャへの分かれ道となる。

 希望街道はタガン州を横断し続け、西へと向かうと、周り一面大きな大地の崖が見えてくる。とりわけデューク(Djouk)とカムール(Kamour)はから見下ろす谷間の景色は壮観だ。

 続いてゲルー (Guerou)、広大なサバンナ地帯の中でラクダやろば、こぶ牛などが放牧されている。ゲルーは北部アドラール州の消え去った町チニギ(Tinigui)の人々が、移り住んで興した村だ。

 タガンの隣、アッサバ州の中心、キッファ(604km)。キッファで何より目につくのはバンコと言われる泥で作った家々。ニジェールやマリの川沿いに多く見られるスーダン風建築を思わせる。

 キッファから希望街道を離れて北へ160kmタムシュケットがあり、その先にかつての大きなキャラバン都市、今は遺跡の町となったアウダゴスト(Aoudaghost)がある。
 
 希望街道の両側に大きな岩山が見えてくるとアイウン・アル・アトラス(Ayoun el Atrous), 819kmに着く。 広大なホッジ(Hodh)盆地の中に位置し、アッサバ断崖、タガン断崖、チシット断崖、ワラッタ断崖がホッジ盆地を取り囲んでいる。
 続く小さな村チンベドラ(Timbedra)、そして希望街道の終点、ネマ (Nema)。

  1985年に出来上がった舗装道路も、その後かなり荒れ果て、2000年に入って、ヌアクショットからキッファを通過し、チジクジャまで修復・舗装された。その先の修復工事も進められている。

  参考 : モーリタニア地図

沙漠化 
 もともと遊牧民の国民性、できることなら遊牧の生活をしたいと望んでいないモーリタニア人はいないという。ヌアクショットからネマまで約1100kmにわたってモーリタニアを横断する希望街道(Route de l’espoir)、かつては沙漠へ向かうことが希望だったのに、今では沙漠を抜け出し、都会に希望をつなぐ道路になってしまうとはなんと皮肉なことなのだろう。

 沙漠化については、モーリタニアと沙漠化のページをご参照ください。

進出する中国人 
中国はモーリタニアと1965年に国交開始以降、ここ10年あまり他国に先駆けて相互関係を深めてきた。分野は政治、経済、農業、医療・衛生、エネルギー、漁業、インフラストラクチャーと幅広い。近年の情報を元に、進出ぶりをまとめてみた。

商業分野では、近年特に貿易が拡大し、中国は対貿易国のベスト3に入りつつある。首都ヌアクショットには多くの中国人が居住し、中国雑貨を売る商店なども増加した。

農業分野では、首都から南部へ250kmあまり、ロッソのンプーリエ(M'Pourie)米作地で、中国人農業専門化が穀物栽培の指導にあたっている。

エネルギー分野では、とりわけ石油部門で、中国企業のCNPC(中国石油天然気集団公司)がモーリタニア国内3ケ所(ブロック12のヌアクショット沿岸油田、ブロック13,ブロック21のタウデニ油田)の開発契約を結んだ。タウデニ油田では既に探鉱掘削を終え、アエロ・マグネティク、重量分析の段階に入った。

鉱業分野では、モーリタニア鉄鋼公団SNIMと中国のChina Minmetals Corpotaionとで年間1,5万トンの鉄鉱石の購入契約が結ばれ、向こう7年間中国に向けて輸出される。

医療についても10年以上も前から協力が進み、ヌアクショットやキッファ、セリバビの国立病院で2年間単位で中国から医師団を派遣している。医師団はスキャナー、エコーグラフ、整形外科、疫学、産婦人科、外科、眼科、食育、水科学、バクテオロジー、ウィルス学などの専門家によって構成されている。

インフラストラクチャーでは、数十年にわたってモーリタニアの経済および社会的発展の要として貢献してきた。中でも重要なものは、ヌアクショット自治港、モーリタニア&中国友好港で、これにより小型船から大型タンカーまで寄港できるようになり、モーリタニアへの定期的な物資輸送が可能になった。

その他には、国立美術館、中央医療研究センター、(Centre national de Recherches en sante publique)、大統領官邸なども建設し、2010建設予定のヌアクショット国際空港の建設も中国冶金建設集団公司が受注した。

これまで、モーリタニアの道路修復工事を中国は数多く手がけ、ヌアクショット〜アタール、ヌアクショット〜キッファ、一部のヌアクショット〜ヌアディブ道路など、主な道路にかかわってきた。2007年のカエディ〜ヌアクショットを結ぶ鉄道、4億7,000万ユーロの工事(そのうち70%が輸出入銀行の融資)を受注した。同鉄道は430km、鉱物資源の開発や、道路沿いの様々な経済発展に大いに寄与するものと期待されている。

また、貧民問題でも中国はモーリタニアに大きく貢献。救貧対策として20億2,500万ウギア(=9億1,125万円)を無利子・融資契約を2006年12月に結んだ。雨不足、一部のサバクトビ・バッタの襲来やその他自然災害により、モーリタニアの極貧層が一段と増大したことで、モーリタニア政府が中国に支援を求めたもの。

教育分野では、中国政府からの奨学金により、年間数名のモーリタニアの留学生が中国の大学、高等教育などで受け入れられている。

スポーツ・青年分野では、中国はヌアクショットにオリンピック・スタジアムを建設した。また、芸術分野で中国の民族舞踊団などが定期的にモーリタニアで公演を行い、両国の親善に努めている。