先史時代

 遊牧民の老人たちに口々に語り伝えられているモーリタニアの伝説がある。「その昔、私達の国には巨人が住んでいたんだそうだ。私達よりはるかに大きな体格をした人類で、中には5m以上もあったという」。いわゆる、バフール(Bafour)人のことである。彼らの住んでいた形跡があちこちに残っているというのだ。アドラール地方に、今日絶滅してしまった野牛が野生の羊の絵が壁画として残っているのだが、この壁画がバフール人によって描かれたといわれている。シンゲッティに最初に住み着いたのがこのバフール人で、彼らはイスラム教徒のレムトゥーナ(Lemtouna)部族に征服されるまでアドラール地方に住んでいたらしい

  このバフール人はどこからやってきたか、カナリア諸島だという人もいれば、かつて北アフリカにあったゲツレから来たという人もいて、結局謎のままなのだが、どうやら、バフール人がモーリタニアに最初に住んだ人類であるのは疑わしい。人が言い伝えられる期間が2000年以上溯ることはむずかしい。ところが、モーリタニアでは既に今から約60万年前から人が住んでいたことが、石器や遺跡などから確認されているからだ。

  北部のズエラット(Zouerate)、アケルデイ河(oued Akerdei)、ワダン(Ouadan)の北部などに、石を意識的に並べた跡が数箇所見つかっている。この最初にやってきた人類たちは、水が得やすい川の近く、また、道具として使う固い珪岩(けいがん)や燧石(すいせき:火打ち石になる石)の出る鉱脈の近くに居を構えた。道具といっても、まだ手の込んだものではなく石と石をたたいて片面だけ尖らせた原始的なものだった。

  はるか何十万年も昔、モーリタニアに最初に住んだ人類の跡はこの道具だけで、この頃の気候や地形などはほとんどわかっていない。

旧石器時代前期(紀元前30万〜40万年頃): アシュール文化といわれ、人々は始めて火を使いはじめた。道具も石を削る技術が向上し、器用に削られた石の斧、石刃、掻器、削器などが使われた。ズエラット、ビル・モグレン(Bir  Moghren)、アクジュート(Akjoujt) 、アドラール州の数ヶ所、モーリタニア西部にこれらの石器が多く見つかっている。

旧石器時代中期(紀元前10万〜35,000年頃) :石を削るだけでなく、石を砥ぐ技術が取り入られるようになった。
 旧石器時代後期 (紀元前35,000〜2万年): 現代人の祖先と言われるネアントロープ人が北アフリカ一帯に広く住むようになり、モーリタニアでも北部に住んだ形跡が確認されている。特にヌアディブ界隈に多く彼らの使っていた鋭利な石器や、掻器、削器などが見つかっている。アテール文化(Aterien)と呼ばれ、突起部をつけて柄にくくり付けられるようにした石器がこの期の特徴。

新石器時代 紀元前8000年頃):ほとんど詳細がわかっていないモーリタニアの先史の中で、最も解明されている時期である。
ニジェールの北部、アイール(Air)などのサハラ砂漠中央山岳部のほうから狩猟をする民族が次第に西へと広がり、やがて紀元前6000年頃にモーリタニア北部にやって来た。この時代のアンチロープ、キリンやサイを描いた壁画や、鋭利な矢じりが残されている。彼らは大西洋岸や奥地の既に消滅してしまった湖などで漁をしたり、貝をとったりしていた。 当時、サハラはまだ完全な砂漠ではなく、乾季のおりおりに時々雨季があったようである。また、大西洋の水位も今より3mも高く、ヌアクショットそばのンドラムシャ(Ndramcha)辺りまで水面下にあった。またセネガル河河口も今よりかなり奥地まで広大な湾になっていた。

紀元前7500年頃にニジェールのアイールあたりで焼物が行われるようになった。新石器時代の革命といわれ、モーリタニアでは遅れてようやく紀元前4000年頃になって土器が作られ始める。これによって食べ物を料理したり保存することができるようになり、人々の生活が根本的に変化した。獲物を追いかけて移動する生活ではなく、保存することによって滞在型の生活ができるようになったのである。

 さらに、この土器の使用は人類に家畜を飼う習慣をもたらした。定住する為に動物も共に定住させる生活をする人々が出て来たのである。モーリタニアで最初の家畜の飼育は牛類で、紀元前2000年頃始められた。人々はカバ、象、アンチロープなどの大型動物を狩猟し、銛や鈎針を使って漁をしていた。また、この頃から装身具と共に埋葬し、時に墓を建てたり、葬儀の原形のようなものを行う習慣が始まった。

 サハラ砂漠一帯、各地で壁画が見つけられ、それから先史時代の生活が伺えるが、モーリタニアの壁画もそれぞれの時代を背景に変化する。紀元前4000年頃の壁画は狩猟している野獣(主に象、アンチロープ、キリン、サイなど)を岩に削ったり絵を描いたりしていたが、紀元前2000年の頃の壁画は、家畜である牛類をモデルに描いている。むき出しの岩にではなく、洞窟などの囲われた岩の上に絵が描かれるようになり、狩猟の様子なども描かれるようになった。さらに紀元前1000年頃には、アフリカ北部からやってきた牛や馬に引かれる荷車の絵が描かれる。

新石器時代後期(紀元前2000年頃):紀元前2000年より少し前からモーリタニア北部で砂漠化が始まるという大きな異変があった。同時に大西洋の水位が下がり始め海岸線が大西洋側に移動し、セネガル河口も湾が小さくなる。ヌアクショット界隈はセブカ(Sebkha)と呼ばれる水が蒸発しやすい塩を含んだ土地で、植物が育たなかった。

 この環境の変化により、奥地の湖周辺に住んでいた人々が移住を強いられ、人々はヌアクショットからセネガル河口、モーリタニア南部にわたる一帯の井戸のある所に移って来て、定住型の生活をするようになる。この辺りの住人は主に牛類を飼育し、その数も大きく増えた。

紀元前1700年〜400年にかけて、ティシット近くのアウケー (Aoukar) 湖畔でそれまでの新石器時代に見られないオリジナルな文化が栄えている。狩猟民族はいわゆる家を持たず、たとえ定住してもテントかもしくは木に枯れ草などをかけた掘っ建て小屋に住むのが普通だった。ところが、ここでは石で家を造っていたのである。
アウケー湖畔の周りに400あまりの石の家の跡が点在している。家にはいくつかの部屋にわかれ、食糧保存庫、家畜用の部屋などもあり、数人の家族が住んでいたことが伺える。この辺りは湖やマリゴ(Marigot: 地下水が地表にでてきた泉)などがたくさんあり、豊かな自然とたくさんの狩猟や漁の獲物がいた。ティシット界隈で、紀元前700〜400年に穀類を作っていたという歴史家もいる。

 北アフリカから新しい民族がやって来て新石器時代は終焉する。彼らは、馬を連れてきた。馬や牛に荷車を引かせる絵が描かれた壁画はモーリタニアだけでなく、サハラ砂漠や北アフリカの各地に見つかっている。荷車には人や荷物を乗せるのに使われたようだ。モーリタニアではその後馬は土地の気候に合わず絶滅してしまう。銅の冶金を伝えたのもこの民族といわれる。


キャラバン隊商の時代

 紀元元年頃は、畜産を営む人も農業を営む人も、砂漠の拡大に伴ってモーリタニア南部へと少しずつ移動していったとされているが、元年の頃の人々の生活は詳細は解かっていない。

 紀元1世紀に入るとサハラ砂漠を横断するキャラバン隊商が大きく活躍するようになる。大西洋を輸送する手段がなかった当時、交易品は陸路、つまりサハラ砂漠を縦断して運ばれた。大きなキャラバン・ルートが6本、地中海からアフリカ南西部を結んでおり、中でもガーナ帝国のバンブーク(Bambouk)とモロッコを結ぶルートが最も栄えた。
 8世紀ごろから(4世紀という説もある) セネガル流域のコンゴイド(黒人)がモーリタニア南東部のクーンビ・サレ(Koumbi Saleh)を中心地としてガーナ帝国がまとまりはじめた。 バンブークで算出する豊富な金をもとに、ガーナ帝国は11世紀まで破竹の勢いで栄える。バンブークを出発した金のキャラバン隊は、タウデニ(Taoudeni)、テガザ(Teghaza)、シジルマッサ(Sijilmassa)などの都市を通って、モロッコの港まで運ばれ、そこから地中海を渡ってヨーロッパへと運ばれる。そしてその帰りに布、宝石、陶器や香水などをブラック・アフリカの国々に持ち帰ったのである。

 キャラバン・ルートの拠点となるオアシスの都市は、大陸内の港として瞬く間に繁栄した。モーリタニア北部のワダンを通過するルートもこの6本のうちの一つで、一時ワダンも隆盛を極めた。モーリタニアの南部、アウダゴスト(Aoudaghost)も、金を産出するガーナから10日ほどの位置にあって、西の金と東の塩の交易地としてあっという間に大きな都市になった。10世紀頃、旅人がサンハジャ朝時代のアウダゴストを「メッカのように人が溢れ、町に入る峠は行列ができていた」と書き残している。

 ガーナ帝国を訪れるアラブ人らは皆その力の大きさに驚いた。コンガ(Khonga)と共に世界で最もリッチな国といわれたほどだ。帝国の都クーンビ・サレは、石で作られた家々が立ち並び、町は大きく幾つかの区に分けられていた。ガーナ人は霊魂を信じていたにもかかわらず、イスラム教徒らによって建てられた12ものモスクがあった。11世紀頃に最盛期を迎えるのだが、11世紀末には、モーリタニアのアルモラヴィドに滅ぼされ、あれ程栄華を極めた花の都があっという間に陥落してしまう。


 一方、11世紀初頭に、レムトゥナ族(Lemtouna)の一派サンハジャ人(Sanhadja)が南部を中心に勢力を伸ばしていた。そのサンハジャ人の酋長の甥、ヤヒア・ベン・イブラヒム・アル−アグダリ(Yahya ben Al-Agdali) が1035年、メッカに巡礼し、イスラム高僧アブダラ・イブン・ヤッシン(Abdallah Ibn Yasin)を連れ帰る。
 地元でイスラム教の布教を試みたが受け入れられず、北部のヌアディブ〜アルゲン界隈で布教を始めた。そして聖戦に備えての軍事訓練と称して僧兵集団アル・ムーラビタン(Al-Mourabitin)を結成する。この小さな僧兵集団は次第に力をつけ、後にアルモラヴィド(Almoravide)と名を変え、レムトゥナの他の部族やゴダラ(Godala)、マスーファ族(Masoufa)らを治めながら、大きく勢力を伸ばすのである。

 ヤヒア・ベン・イブラヒムの死後、アル・ムーラビタンの中の実力者、ヤヒア・ベン・オマール(Yahya ben Oumar)とアブバックル・ベン・オマール(Aboubakr ben Oumar)兄弟が僧兵の指揮を執り、ジハード戦としてマグレブ南部を治めていく。1054年にはモロッコ南部の重要なキャラバン都市シジルマサ、1055年にはアウダゴストが彼らの手中に治められた。

 1056年にタブファリリ(Tabfarilli)の戦いでヤヒヤ・ベン・オマールは戦死してしまう。そこで、その後を次いだいとこユースフ・イブン・タックファン(Youssouf Ibn Tachfin)は、アブバックルと共にそれぞれモーリタニアの北部、南部を押さえる。

 北部を担当していたユースフはモロッコ全土、アルジェリアのトレムセンやオラン、アルジェ等を征服し、ついにはジブラルタル海峡を越えてスペインのアルフォンス4世と交戦する(1086年)。その後、ユースフによってスペインのほぼ全土が平定され、イベリア半島の大部分がイスラム教下となる。
 
 一方南部を征服していたアブバックルは1062年、ガーナ帝国と交戦を始める。ガーナ帝国の激しい応戦に多くの死者を出し苦戦するが、ようやく1076年にクーンビ・サレを陥落する。一時、栄華を誇ったガーナ帝国も、これを機に滅亡へと向かう。
 
 
注: ガーナ王国は、8世紀から11世紀、クーンビ・サレを首都として栄えた王国。当時、セネガル川上流のバンブク周辺から産出される金、サハラ砂漠から産出される塩、銅や宝飾品などが交易されていたが、ガーナ王国はその交易路を押さえて、中継貿易の利益を得て繁栄した。アルモラヴィドに1076年に滅ぼされる。

 アルモラヴィドがこうして国の内外で戦っていた長い間に、ワラッタ、ワダン、シンゲッティなどのキャラバン都市はサハラ縦断の隊商の都として最盛期を迎えていた。中でもシンゲッティはイスラム教7番目の聖都としてたくさんのイスラムの高僧、敬謙な信者や、学者・研究者などのインテリが集まった。
 また、ワダンは、マリ王国が産出する金、イジル(ワダンから北西200km)から産出する岩塩の取引の中心地として栄えた。

 13世紀になると北アフリカからアラブ系遊牧民ハッサニ族がやって来る。ハッサニ族は、アラビア語の方言であるハッサニア語を話す白人系の貴族部族である。彼らは、サンハジャ人や土着のベルベル人と混ざり合って、アラブ化したムーア人社会を形成していく。そしてムーア人はモーリタニア国内で大きく勢力をのばし、21世紀の今では、モーリタニアは9割がこのムーア人が占めるようになる。そして、ハッサニア語はセネガル河流域一部を除く大部分で話される言語となる。

 1674年のセネガル河流域のテルティラスの戦い(Tertillas)、ティン・イェドファの戦い(TinYedfad)を機に、アドラール、トラルザ、ブラクナ、タガンなど地方ごとにアミラール(首長)が治める小さな自治体が始まる。17世紀にはこの首長による自治体がセネガル河右岸だけでなく、左河のセネガルも同じように独立した自治体ができるようになっていた。やがて、そこに入ってくるのがフランス人である。



フランス植民地時代


 1638年、フランスは最初セネガルの北部、サン・ルイ島に拠点を置いた。ヨーロッパで工業や薬品業で求められていたアラビカ・ゴムがセネガルやセネガル河流域で採れ、これを統制しようとしたのである。一方、オランダが同じ目的で1677年にセネガルのゴレ島を拠点とする。フランスはその後、ゴムを産するモーリタニアのトラルザ地方やブラクナ地方も、セネガル河流域の保安統制の為と称して治め、さらにモーリタニア全土を植民地化しようと軍を進める。既にマグレブ(モロッコ、アルジェリア、チュニジア)を植民地化していたフランスは、モーリタニアを植民地化するとセネガルまで陸続きに統制でき、都合がよかったからだ。

 フランスはモーリタニアで首長国らの激しい攻防戦に遭う。そこで1904年、ザビエル・コッポラーニ(Xavier Coppolani)政府委員を派遣し、モーリタニアをフランスの保護国とし、さらには、AOF(西アフリカフランス領)の領域との境界線としてモーリタニア北部の国境についてスペインと協定を結んでしまう。1905年、コッポラーニの死後、グーロー司令官(Gouraud)がアドラール地方を攻略し、シェイク・マ・アル・アイニン(Cheikh Ma el-Ainin) に引き入られたレジスタンスを押さえ、アドラール地方とホッジ地方がフランス軍に治められることになる。

 その後、激しく反撃するモーリタニアのレジスタンスを縮小させる術のないまま、ヨーロッパで第一次世界大戦が始まる。が、この機に乗じてフランスはモーリタニアをAOF(西アフリカフランス領)保護地区として行政を押さえてしまう。そしてついに1920年モーリタニアをフランス植民地とする制令が出される。こうしてモーリタニアはフランス植民地として、国語はフランス語、通貨はフランスフラン、行政もフランスに従うなどのいろいろな植民地政策下に置かれるが、1932年のムートゥンシ(Moutounsi)の戦いなど、現地レジスタンスの反撃は第2次世界大戦まで続く。


モーリタニア独立とその後

 第二次終戦の後半、フランスの植民地各国で独立運動が高まり、1946年フランスはまだ独立から縁遠いとはいえわずかに独立承認を暗示する、フランス連邦制令を発布する。1957年にフランス国会の承認を得、1958年、フランスはモーリタニアの独立承認書が提示した。ついに1960年11月28日、モーリタニアイスラム共和国が建国され、国民議会から選ばれた政府審議委員によって弁護士モクタール・ウルド・ダダ(Moktar Ould Daddah)が国家副代表に任命された。

 1963年、ズエラット鉄鋼開発が発足、モーリタニアの大きな繁栄をまねる。
 
 1973年、それまでフランス通貨が国内で流通していたものを、独自の通貨モーリタニア・ウギア(Ouguiya)の使用を開始。

 1976年、スペインが元スペインサハラ領を撤退し、領土をモロッコとモーリタニアに返還することにした。
      ここでポリサリオが独立戦線を布告し、サハラウィ共和国の独立宣言を宣誓。

 1978年、モクタール・ウルド・ダダに反する軍部がクーデターを起こし、軍事政権が最高決定機関となる。

 1979年8月、モーリタニアはポリサリオと和平協定を締結。

 1980年 元首相、フーナ・ウルド・ハイダラ(Khouna ould Heydallah)が政権を握る。

 1984年、再編成された軍事委員会によってマウイヤ・ウルド・シッダハメッド・タヤ(Maaouiya ould Sid’Ahmed Taya)大佐が国の代表に選出される。
    これ以降、モーリタニアでは個人や地方自治体の独立化が大きく進展する。

 1984年政治犯の開放。同時にこの頃から、個人経営の新聞社や出版機関の独立、女性開放、人権運動などが進む。

 1986年、モーリタニアで初めての選挙が行われ、ヌアクショットの都知事他、州(wilaya)知事が選出された。

 1987年、地方選挙が行われ、県(Moughataa)知事が選出された。

 1989年1月13日、164の市長村が誕生。国は13州に分けられ、それぞれ州知事(wali)が統治することになった。

 1991年、国民投票により、2院制のもとでの大統領制とする新憲法が採択された。

 1992年、普通選挙、国民議会選挙でマウイヤ・ウルド・シッダハメッド・タヤ(Maaouiya  ould  Sid’Ahmed  Taya)が大統領に選出された。

 1997年 普通選挙と国民議会議員選挙でタヤ大統領再選

 2003年6月 軍部によるクーデター未遂事件、政府軍により事態は収拾された。

 2003年11月、タヤ 大統領が再選、三度目の任期。

 2005年8月、タヤ大統領が不在時、軍部によるクーデターが勃発、タヤ大統領は国外追放。
        軍部による暫定政権「正義と民主主義のための軍事評議会」が発足し、民主化プロセスが進められた。

 2007年3月、選挙によりシディ・モハメド・ウルド・シェイク・アブダラヒ(Sidi Mohamed Ould Cheikh  ABDALLAHI)が大統領に選出された。

 2008年6月 ワゲフ内閣に対し不信任決議。翌月、第2次ワゲフ内閣が組閣。

 2008年8月 軍事クーデターが発生し、アブダラヒ大統領、ワグフ首相、内相が拘束された。
      軍部の中心となったモハメッド・ウルド・アブデラジズ元大統領警護隊長が、「高等国家評議会」の樹立を宣言、同氏が議長となった。